パンを一口かじったら形が変わった!、ごねる僕


 3〜4才位の頃のこと。・・・食パンを食べていた。
数口カジッタ時のパンの形が非常に気に入った。
その後もう一口、カジッタら、形が変わっちゃった!
 前の形が気に入っていた!、と、泣きわめく僕。



甘えん坊の僕、自分のことを 「僕ちゃん」 と云っていた


"上海第一日本国民学校" (小学校)に入学する時、
母から 「僕ちゃんは...」 「僕ちゃんが...」 などと、
 自分のことを 「僕ちゃん」「僕ちゃん」と言うのは止めなさい、
・・・と、 クドクドと叱られながら、小学校の制服を着せられていた時のことを、はっきりと思い出す。


僕は、精神的・肉体的に 虚弱体質だった。
すなわち、精神的には、気が弱く、弱虫で、女の子からのイジメラレッ子であった。
そして、肉体的には、
 下痢して寝込む
ことが多く、”ひまし油” の愛用者(?)であった。
僕の母親は、上海では下痢に対しては ”峻下剤” を用いていた。
現在は、峻下剤として”ひまし油”が使用されることは殆ど無いので、
”ひまし油”の美味を味わった人達は少ないだろう。
是非とも下痢、頑固便秘の人には、 ”ひまし油” を味わって貰いたいなー。

なお、幼児〜小児の時には、3日間床に伏すと足腰が弱ってヨロヨロなることを経験で学んだよ。


s13.06.19 母と浩一 300 - 443
昭和13年6月19日、 母と神経質な顔つきの僕(満2年3ヶ月)


1940(s15).10.15 父と僕 300 - 443
昭和15年10月15日 父と神経質な僕(満4才7ヶ月)




 
3〜4才位の頃のことである。”食パン” を食べていた。
数口カジッタ時の ”食パン” の形・格好が良かった。
 この形を非常に気に入っていた。

そして、
その後、もう一口、カジッタら、”食パン” の形が変わっちゃった!!!  
前の形が気に入っていたのにー、と僕ちゃんは泣いた。


父から「どうした」「どうした」と抱いてアヤされたが、
「食パンの形の変化のこと」 が問題なのだと巧く説明できない! 説明するようなことではないよー。

・ ・ ・ 更に、泣き喚くしか方法はなかった!




 
父は困っただろうなーー、、、!



でも、

僕は、現在、年取ったジジーになっても、
同様なこと、

『寝た時の布団の形・寝た格好が良い』

その他、
『大好きなオカズは最後に食べる』、ことなど、
・・・縁起担ぎ?のようなことに拘っている。



とは言っても、僕は、
・頑固者、、・意地っ張り、、・負けず嫌い、、
・中途半端はイヤ、、・責任感は人一倍!
・ギャンブル大好き 

・・・ルーレット、麻雀、 ポーカー特に、セブンカード・スタット


・・・・・ラスベガスでルーレットをしながら死ぬのが本望 !?!
ー> カーちゃん曰く :「ラスベガスには行かせません!!」 、だとさ・・・アーア

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タグ : 食パン カジッタ 形が変形 僕ちゃん

このブログ(自分史)の目次

古いブログにどのような内容のものがあるかは、分かりづらい
 == 故に、ブログ(自分史)の目次を作成した ==

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       最終更新日:2015-11-23

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最新ブログ(更新したもの) 2015.11.23

242)僕の左脳に未破裂脳動脈瘤が発見された 10.7更新

243)パンを一口かじったら形が変わった!、ごねる僕 11.23更新






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第一部 満州からの引揚げ(孤児、満州三兄弟)

01)満州からの引揚げ
02)上海での優雅な生活 - 幼少時から小学校低学年
03)上海での優雅な生活 - 新公園の思い出
04)上海での優雅な生活 - 狄思威路アパート
05)感激の瞬間、アパートの部屋発見
06)貧困な中国社会、その後の発展
07)「人民元」と「兌換元」
08)僕が経験した上海の現実
09)日本海軍特別陸戦隊
10)小学生の僕が美味しいと思った食べ物
11)上海から、満州・奉天へ疎開
12)ぼた山に人骨ギッシリ
13)[ぼた山に人骨ギッシリ] の考案 - アメリカおよび日本の狂気 == 外国から約300通のコメントあり、非公開とした
14)終戦、そして西本願寺に逃げ込む
15)ソ連軍、八路軍、そして国府軍の駐留
16)母ちゃんが死んじゃった
17)シラミと過ごした8ヶ月間
18)誰か食べさせてくれた人がいたか
19)盗みカッパライで食べた孤児の生活
20)優しかった満人の露天商(ポップコーン、煎餅)
21)満人の「人さらい」はいない
22)人殺し方法を夢見た日々
23)まる裸・フリチンで市内を縄跳び、捕まった
24)戦後の学校教育、冬の「三寒四温」
25)虫食いだらけのビスケット
26)引揚げ途中、10円貰ってオニギリ1個
27)引揚げ途中での悔しさ
28)引揚げ乗船前の行軍中のイライラ
29)引揚げ行軍中の生涯忘れえぬ大感激
30)人間魚雷発射軍艦(?)でコロ島から博多港へ
31)下船延期、博多の検疫病院に健三が入院
32)無一文引揚者に対する金銭援助・給付金
33)帰郷後、僕らを探してくれた人
34)奉天(瀋陽)を訪れる
35)メッセージになる僕らの体験
36)【付録】貧困な中国社会、その後の発展
37)【付録】アメリカおよび日本の狂気【本/社会】
 == 外国から約700通を超えるコメントあり、非公開とした
38)「自分史を書くに至った理由」
39)抜けた真ん中、帰ってきた3番目





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第二部 小・中・高校生時代(帰国後)

40)感心感心と云われて戸惑う、兄弟三人の引揚げ
41)全く分からない鹿児島弁
42)鹿児島の女性差別
43)小学生生の決闘、喧嘩の順番
44)雪の中を裸足で登校、小学生の時
45)川泳ぎ、大雨後の増水時に流される
46)川釣りを楽しむ
47)銀しゃりをたらふく食べた食べた
48)カイコさなぎの味噌汁、食べさせられた
49)ニッキの木の根をかじった
50)父の生前遺言「親兄弟でも保証人になるな」
51)小学生の僕が営業した貸本屋
52)金回りが良いのでチビのガキ大将になった
53)僕はレンタルビデオ店の先駆者だ
54)小学生の時の遊び(1)夢中になった遊び
55)小学生の時の遊び(2)特に熱中した遊び
56)父の再婚、健三を養子に出す
57)父への反抗、継母いじめ
58)健三「生みの親より育ての親」
59)真空管ラジオの制作、小学5年生
60)僕は勉強できると判明、鹿児島市内の中学に転校
61)僕は家を出て、長男としての任務は俊二へ
62)親に内緒でラ・サール高校を受験
63)開校当時のラ・サール高校の環境
64)ラ・サール高校でのクラブ活動
65)タイプライターで肖像画を描く
66)ラ・サール学園のハーモニカ部
67)ハーモニカ独奏について
68)分散和音奏法、ハーモニカ独奏
69)ラサール高校寮の環境
70)寮生の食事、娯楽、勉強環境
71)ラ・サールでの猛勉強の経験
72)工学部志望、このため浪人を希望
73)念願の予備校生活
74)4ヶ月間で浪人生活挫折
75)桜島の爆発、昭和30年
76)本に収まるポータブルラジオの制作
77)肺結核に対する恐怖心





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第三部 大学・医学部時代(ジャズドラマー)

78)トランプで決めた医学部への入学
81)医学部・教養時代の生活
82)いいアルバイトと、キャバレーを紹介された
83)「水酌んでこい」「タバコ買ってこい」
84)ロカビリーを聞きに東京に行く
85)ミュージシャンの生活環境
86)ジャズの歴史
87)デキシーランドバンドに紹介された
88)平原勉のデキシーランドバンドの経験
89)ドラマーとしての評価を得た!
90)博多のキャバレーでの経験
91)父「それも良かろう今迄通り金送る」
92)長崎の「銀馬車」にドラマーとして勤務
93)ジャズ喫茶に出演
94)「重いリズム」「軽いリズム」
95)帰省中に、布団一式等が入質されていた
96)僕が好きだったジャズプレイヤー
97)非常にノリが良いピアニストとの出会い
98)バンドマスターの経験
99)僕が持っていたジャズレコード
100)フルバンドをコンボスタイルでドラミング!
101)ジャズバンドの構成
102)"アドリブ" と "フェイク"
103)ジャズの分類、三つのジャズスタイル
104)念願かなってビッグバンドのドラマーに
105)外人ショウを途中で中止させた!
106)ドラマーとテクニック
107)ビッグバンドの『ジャンゴ』
108)ジャズアルバイトから完全に手を引く 昭和37年

109)棘突起過敏症、そして肺結核に罹った
110)入院しながらの卒業試験
111)急性虫垂炎の手術、術後、緑膿菌の皮下膿瘍
112)3ヶ月遅れのインターン生活  昭和38年
113)インターン生、医師国家試験前に僻地に出張  昭和38年


114)学生ジャズバンド "スイングボート" 結成  昭和38年
235)長崎大学スイングボート "定期演奏会" 昭和39年
191)新宿ピットインでジャズを楽しむ 55年頃 昭和55年 <= 第六部
192)タモリの店でジャムセッション、2時間 昭和55年 <= 第六部
236)「新長崎市史」 に僕のことが掲載された 2015.1.31





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第四部 大学院時代(アフリカ滞在 1年)

115)大学院でウイルス学を研究することになった
116)アデノウイルスの研究
117)アフリカに行くことになってしまった!!
118)アフリカへの珍道中1 パスポートを忘れた
119)アフリカへの珍道中2 もう飛行機に乗らない
120)アフリカへの珍道中3 インドでコーラ飲む
121)ケニア:ナクールの観光
122)「ムワンザ」到着直後、HeLa細胞のジャー爆発
123)#1 タンザニア「ムワンザ」での日常生活
124)#2 タンザニア「ムワンザ」での日常生活
125)東アフリカに於けるウイルスの研究(1)
126)東アフリカに於けるウイルスの研究(2)
127)ムアンザの夜の顔
128)軍隊内のダンスパーティーで踊り明かす
129)ビクトリア湖畔でくつろぐ
130)ウガンダのウイルス研究所を訪れる
131)タンザニアの道路、交通事情
132)無免許、酔っ払い運転
133)Williamson ダイヤモンド鉱山
134)セレンゲティ動物園へ
135)エピソードあれこれ、タンザニア
136)『マライカ』というタンザニアの歌曲
137)アフリカの土産物
138)銀行を摂取された! 至急帰国になった
139)イミグレーション:ビザを1ヶ月延長
140)タンザニアとおさらば
141)ケニアを観光して、アフリカを離れる
142)帰国した! = バンコック、香港を経由 =
143)ポレポレのタンザニア、コセコセの日本
144)世界一長い英語論文を書いた





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第五部 医師として(長崎時代)

145)呼吸器を辞めて消化器専門になることにした
146)ゴルフは絶対にしない!
147)歌舞伎町 1夜で15万円!、昭和44年
148)苦しくない胃内視鏡検査
149)胃X線検査法に凝りに凝る
150) EBウイルス感染症か:高熱とリンパ節腫脹
151)昭和30年代の長崎の経済状態【追記】 => 89)の後半へ転記
152)東望病院での診療業務、家庭サービス
153)父が脳梗塞で倒れる
154)白壁彦夫先生に僕の強烈な印象を与えた
155)佐世保市立総合病院に勤務した
156)日中は診療に明暮れ、夜は "軍隊バー" へ
157)長崎の「早期胃癌研究会」
159)長崎大学病院の文部教官になった
160)「病理組織型別にみた胃癌の鑑別診断」
161)多くなった癌の主題:地方会のシンポジウム
162)巨大な両側性の珊瑚状結石が発見された
163)満州孤児の時の、弟・俊二のワダカマリ
164)紅葉見物「枯葉を見て何が楽しい」
165)胃穿刺吸引細胞診、1973年
166)文部省科学研究費 一般D、個人研究費
167)内定していた学会長を奪い取ってしまう
168)内視鏡学会長が分離独立した理由
169)実行委員として合同秋季大会(長崎) の準備
170)合同秋季大会(長崎)、学会当日の運営
171)田代美代子とデュエットした
172)「カキフライを食べよう」、柿フライ?
173)グルメの僕、特に魚介類が好物
174)死ぬ思いでフグを食べた
176)ライフワークの臨床的研究を論文に出来ず
177)長崎大学医学部の学生運動、昭和50年前後
178)僕は「真性多血症の疑い」ありと
179)息子が「ラ・サールに入学したい」と
180)「君マージャンするかね」と、村上教授
181)長崎大学を辞めて、埼玉に行くことに





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第六部 埼玉県立がんセンター

182)採血しない看護婦、埼玉県立がんセンター
183)埼玉まで鳴り響いていた僕のドラマー
184)急性膵炎の為3ヶ月で12Kg体重減少
185)全身麻酔で声帯ポリープを切除
187)埼玉県立がんセンターでの勤務状態
188)灰色の巨塔1、開設時の埼玉県立がんセンター
189)灰色の巨塔2、開設時の埼玉県立がんセンター
190)アジア太平洋内視鏡学会で発表、s55年
191)新宿ピットインでジャズを楽しむ 55年頃 =>=>第三部
192)タモリの店でジャムセッション、2時間 =>=>第三部
193)厚生省から医療援助で沖縄に派遣された
194)抗癌剤のみで完全に治癒した進行胃癌症例
195)進行癌に対するレーザ治療
196)週刊誌グラビア特集の一面に掲載された
197)「ガン告知」がない時代が良かったか1
198)「ガン告知」がない時代が良かったか 2
199)「がん告知」の功罪
200)中心静脈栄養法カテ挿入ミスで大事故
201)「中心静脈栄養法」の進歩、発展
202)「中心静脈栄養法」の発展、CVポート
203)手持金10万円で49坪の一軒家を建てた
204)灰色の巨塔3、昭和50年前後の大学の医局
206)ミュンヘンの国際学会でレーザ治療成績発表
207)「先生は共産党員ですか」と
208)消化器内視鏡学会 埼玉部会の設立
209)厚生省がん研究助成金
212)癌性腹膜炎に有効な "MFP 療法"
213)第8回消化器レーザー内視鏡研究会を主催
214)僕とアツレキを生じていた? 父亡くなる
216)当センター大腸疾患の専門家、若くして急死
217)第8回日本消化器内視鏡学会関東セミナー主催
218)母の「50回忌」
219)業績1:病理組織型別にみた胃癌の鑑別診断
220)業績2:癌に対する化学療法
221)業績3:進行がんに対するレーザー治療
223)業績4:バルーンによるレーザー温熱療法
224)業績5:免疫、X線、症例報告
225)業績6:ウイルス学、その他の研究
226)埼玉県立がんセンター退職 





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第七部 雑文、その他

79)「ブーマージャン」
80)「カラ打ちパチンコ」
158)【考察】医者と製薬業界との関係
175)アルコール飲料は放射線防護剤になるか?
186)トランプ占いによる医学部入学、後日談
205)「川身変更の由来」残念至極の先祖の古文書
210)医学的 "差別用語"
211)医学用語・医学略語
215)レセプト病名、保険病名、カルテ病名
222)ルーレット必勝法(確率からの検討)
227)完全な禁煙に成功、55才 
230)風邪に抗生物質は効かない





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第八部 がんセンター退職後
228)"雇われ院長" として勤務1
229)"雇われ院長" として勤務2
231) リハビリ専門病院に勤務  <= 2014.4.15更新
234)お母さん(継母)死亡、2004年 <= 2014.5.11更新
237)ラ・サール4期 卒業50周年記念同窓会 <= 2014.8.17更新 

238)1.学園生活 卒業その後【卒業50周年記念誌】 2015.8.20更新
239) 2.ハーモニカ部 【卒業50周年記念誌】 2015.8.25更新
240)3.ラ・サール寮の思い出【卒業50周年記念誌】 2015.9.4更新
241)弟が”サンゴ状腎結石”由来の腎不全で逝ってしまった9.15 更新





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第九部 国際学会、海外旅行
232)CPT-11 治験発表、ASCO 1993  <= 2014.4.27更新
233)"ディズニーワールド" 観光、1993年 <= 2014.4.30更新


最新ブログ(更新したもの) 2015.11.23

242)僕の左脳に未破裂脳動脈瘤が発見された 10.7更新

243)パンを一口かじったら形が変わった!、ごねる僕 11.23更新



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僕の左脳に未破裂脳動脈瘤が発見された


 2008年6月の MRI 検査で
 僕の左脳に ”脳動脈瘤” が発見された
    「未破裂(左)中大脳動脈瘤」




数年前より、春頃になると、”回転性メマイ” を認めることが多くなって来た。

  参照)回転性めまい - Wikipedia
  参照)回転性めまい: めまい: メルクマニュアル 家庭版


そこで、ほぼ1年置きに、自施設(のぞみ病院)で MRI 検査を受けていたが著変は認められなかった。

のぞみ病院は、日本全国でも有数な「リハビリ専門病院」である。
それ故に、MRI は病院開設と共に設置された。
しかし、初期の MRI なので、画像のコントラストはそれほど良くなく、
画像情報も少なく、MRI装置性能の目安となる静磁場強度(磁石の力)は 0.5T(テスラ)と、低いものであった。

  参照)新しいMRI
  参照)MRI装置と検査
  参照)1.5テスラ、3テスラMRIの注意事項|八重洲クリニック
  参照)MRI:核磁気共鳴画像法 - Wikipedia



脳動脈瘤の発見

2008年5〜6月ころにも回転性メマイが認められたので、自施設の MRI で検査を受けた。
非常勤の 脳神経内科医に MRI フィルムを見てもらったところ、脳動脈瘤が疑われるとのこと。
故に、そのフィルムを大学に持参して、大学の脳外科医に診てもらうことになった。

その結果、「脳動脈瘤が疑えるので、性能の良い高テスラの MRI での再検が必要」だとのこと。
そして、「予防的に血圧を120位に維持したら良い」と。


そこで、埼玉県の 脳神経外科専門病院 を受診した。

  参照) 関東脳神経外科病院

3.0テスラの MRI での検査を受けた。
左脳の中大脳動脈に、5mm(3D)の動脈瘤が確認された。
( ”未破裂 左 中大脳動脈瘤” )


0. MRA 20.8.7 (No.2' )三次元 関東脳神経外科 2' /拡大2   470-482
 平成20年8月7日、関東脳神経外科病院での3.0テスラの MRI の検査所見


1. MRA 2008(h20.8.7 (No.1) 関東脳神経外科 220-164    2. MRA 20.8.7 (No.2) 関東脳神経外科にて 3 220-164



脳動脈瘤の治療、処置法

将来、発生するかもしれない ”くも膜下出血” を予防 するということが治療の根拠であるが、
外科的治療・クリッピング術は、① 年齢が60才以下で、② 動脈瘤のサイズが 1cm 以上の場合に、適応とする、とのことを、関東脳神経外科 の医師から云われた。

故に、僕の場合は、年齢的にも動脈瘤のサイズ上も適応外である。
そこで、血圧を120にコントロールしてfollow up するしか方法はないと。



* 内科医、外科医とも、血圧を120以下くらいに下げて経過をみるしか方法は無い、と言う。
そこで、「今日の治療指針」など、数冊の医学関係の本、文献を調べてみた。
「くも膜下出血の患者が搬入されてきたときには、アダラートL などの降圧剤を使用して、血圧が120位にコントロール出来たら、何らかの処置を考える」と書いてある。 (万が一、死亡しなかったら、との記入はない。)

内科医、外科医の常識、そして、全ての医学学術本・文献 にて、
「くも膜下出血」 の予防は、血圧を120に保つこと、
になっている。



脳動脈瘤の大問題点(末路)は、「くも膜下出血」である。

  参照)脳動脈瘤
  参照)くも膜下出血、脳動脈瘤、未破裂脳動脈瘤 - UMIN

  くも膜下出血の予後 亀田メディカルセンター 未破裂脳動脈瘤外来
  くも膜下出血の予後は - 脳の病気チェックドットネット
  くも膜下出血とは? - KNI 脳と健康のホームページ
  生存率はわずか30%程度。予防が何よりも大切な「クモ膜下出血」


 未破裂脳動脈瘤が1年後にくも膜下出血を起こしている頻度は1〜2%位であると云われている。

そして、くも膜下出血を以前に起こした ことのない患者では、
直径6mm以下の動脈瘤の場合、年間破裂確立は0.1%に過ぎず、7mmから9mmの場合は0.7%とのこと (疫学的)。



 一方、脳動脈瘤の手術の危険性は、多くの報告例をまとめた 結果によれば、死亡率が、1~4%、
何らかの後遺症を残す率が、4~10% 程度
といわれている。


故に、上記の結果、1)外科的治療の危険性2)動脈瘤の破裂でくも膜下出血を来す頻度から、
手術よりも内科的保存療法が良い、という結論のようだ。


しかし、内科的な予防法での 血圧を120位に保つこと、の根拠は全くわからなかった。



降圧剤による副作用、喘息の発症

僕は、普段の血圧は130 (〜140) 位であるが、頻脈(傾向)で、脈拍数は90〜100/分であった。

そこで、降圧剤を服用するにあたって、頻脈性作用のものは避けて使用することにした。
循環器科の医師の勧めもあり、β1遮断薬が良いとのことで、テノーミンを内服することになった。

ところが、
1〜2ヶ月間服用した頃に、「喘息発作」 が認められるようになった。
僕は子供の頃から、喘息の症状らしいことが認められたことは全くない。

以前の「今日の治療薬」には、喘息傾向の患者には使用しない方が良い、と書いてあったが、近年の本には記載されていない。


喘息の治療として、フルタイド エアゾールを吸入して、
3〜4ヶ月後には、
どうにか落ち着いた。

高齢者になってから β1遮断剤、テノーミンを服用して喘息が引き起こされたのは、僕が最初で最後の症例で ?、非常に珍しいこと???と考えられる。

どのような場合でも、薬剤にはとんでもない副作用があることを知った上で服用すること。
出来たら、クスリというものは、なるべく服用しないこと。





血圧のコントロールによる動脈瘤の経過観察


3 MRA 210916三次元 504KB 3 350-350
 1年後の平成21年9月16日、関東脳神経外科病院での3.0テスラの MRI の検査所見

4 MRA 200807 (No.2) 関東脳神経外科にて 2 の拡大 200-250   5 MRA 210916三次元拡大の拡大 のコピー 200-250
初回検査「5mm(3D) の動脈瘤」      1年後 「4.9mm(3D)」

1年後に「関東脳神経外科病院」を受診して、MRI での経過観察を受けたが変化はなかった。



埼玉県立がんセンター内視鏡医長であった NM Dr が
”脳動脈瘤破裂” による 「くも膜下出血」 で急死した

   
2年後の検査を受けようか、と思っていた時にニュースが飛び込んだ。

埼玉県立がんセンター開院当初に、内視鏡医長として3年間勤務したDr が、くも膜下出血で入院した。

  ・・・そして、2週間後には亡くなった !

、と。


僕は ”関東脳神経外科病院” での2年後(3回目)の検査は受けなかった。

神経質に、コセコセして検査をしても、
    脳動脈瘤の破裂はいつ発生するか分からない。

血圧を120前後に保つように
    セッセと降圧剤を飲むのも中止した。



 脳動脈瘤が破裂したら、それが運命だ。

なるようになるさ!
   それはその時のこと、と・・・




なお、その3年後、のぞみ病院に 1.5テスラの MRI が納入されたので、検査を受けたが変化は無かった


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弟が”サンゴ状腎結石”由来の腎不全で逝ってしまった


 弟(次男)が2006年に66才で亡くなった。
   告別式で、僕が親類代表として
 弟の生涯を話したが、 「僕ら三人兄弟が

 満州孤児だった」 ことは誰も知らなかった



そこで、
せめて、親類縁者には、
早死にして 亡くなった弟のことを含めて


僕ら三兄弟が満州・奉天で孤児として、
   「盗みカッパライ」 で生き延びたことを、

知ってもらうべきであると考え、

自分史(ブログ)を書くことにした。



僕が、引き上げてきたときに、故郷の親類縁者のみではなく殆どの大人の人達から、「感心だ」「感心だ」・・・「大変だったろう」「大変だったろう」
、などと、非常に煩く感じるほどの言葉で迎えられた。

しかしながら、僕らは子供だったから、 
    「 盗みカッパライ 」
で生きて来られたのだ!!


満人(満州人)は、日本人の子供を欲しがった、と思われる。だから、
大人の人達は、自分の子供達を 「満人」 に売って(預けて)
家族が食べて生き延びてきたのだ! それでも生きられず 亡くなった人達は わんさといると聞き及ぶ。

僕は子供だったから、盗みカッパライで、なんとか生きて来られたが、

大人の人達が、自分たちが生き延びるために、
「 自分の子供を満人に売って生き延びたこと 」

と同罪であると考え、


満州時代のことは、親に対しても詳しく話さず、自分の心に仕舞い込んでいた。

=> しかしながら、弟の死を契機に、僕ら三人の
満州での生活を皆に知ってもらうことにして、
自分史( ブログ )を書くことにした所以である。




① 上海での上流家庭のボッチャンとしての弟・俊二
====昭和14年 {1939年} 7月16日:上海北四川路142号で出生

1. s14年頃 俊二と浩一(部屋の中) 175-130      2. s16.04.29 父母.俊二.浩一(新) 175-117
s15.3.15 俊二(8ヶ月)と浩一,,,, s16.4.29 母、浩一、俊二、父

3.使用 s17.04.11 新公園で俊二と  175-240               4. s18年ころ? 浩一と俊二(右端)175-131
s17.4.11 仲良しの 俊二(左)と僕        s18年ころ 友達、浩一と俊二(右端)

 、、、、、、、、、、5. s19.11 三兄弟 (健三誕生日) 282-220
,,,,,,,,,,,,,,,,,s19.11.25 三兄弟 (健三満一才誕生日) ・・俊二(右端)


② 昭和20年5月: 満州・奉天 に疎開 =母と兄弟3名の4名で、(父は上海から移動できず)

6. s20.5 母と三兄弟 の4名で奉天へ 298-300
   s20.5 母と三兄弟 の4名で奉天へ疎開


③ 昭和20年8月15日: 終戦、上海の父と音信不通

母は露天商などに出て、生活費を稼ぐ。
母は昭和20年暮れ頃から、床に伏すことが多くなった
・・・ 僕ら三兄弟は、(ほぼ)孤児状態!!


④ 昭和21年5月16日: 母の死亡

僕たちはイジメラレッ子であった。
昭和21年5月16日の日も、そのいじめっ子の女の子達とトランプで遊んでいた。
 そしたら、
「ワーイ、ワーイ、お前の母ちゃんは死んじゃったぞー」、「ワーイ、ワーイ、、、」と。
                         .
例によってのイジメが始まったと思った。
 そして、ウソであると思っていたら、おばさん達から
「急いで病院に行きなさい」と



健三は小さいので本願寺内に残して、
  ー> 「 わーい、おまえの母ちゃん死んじゃったぞー 」 の声を後に聞きながら
ー>僕は俊二と 脱兎のごとく病院へ向かって走った。走った !  
ー>次男(俊二) 「 兄ちゃん、待ってーー 」
  ー> 僕 「 早く走れ! 兄ちゃんについてこい !」


脱兎のごとく道路を、車道を病院に向かって走った。
  自動車、交通事故なんてクソクラエだ。

「 母ちゃんが死んだ 」 「 母ちゃんが死んだ 」 と叫びながら、

背後に 「 兄ちゃん、待って! 」 「 兄ちゃん、待って!」 との、
6才の俊二の声を聞きながら・・・



僕は俊二に
「早く走れ」 「ちゃんとついてこい」 「兄ちゃんを見失ったらダメだ!」
と声をかけながら無我夢中で走った。    そして、病院に着いた。

俊二にとっては「兄ちゃん」である僕を見失ったら最後である。
本当に必死に僕を見失わないようにして僕の後を追ったのだろう。
しかし、僕もしっかりと背後に弟の気配を感じながら走ってはいたが。


母の顔には "白い布" が被せてあった。

 「母ちゃんは亡くなったのよ」
と言われ、少しの間だけしか病室に居らせて貰えなかった。

そして、"遺髪" だと言われ、やや厚紙の紙袋を渡された。
髪の毛 と 爪 が入っているのとのことだった。



どうしても信じられない  「どこかの大人が、かーちゃんが死んだことにして、どこかへ連れて行ったのだ」、と思った。
ー>この気持ちは、帰国後、高校生まで、そのように思うことがあった。
 

母の葬儀は、寺の本堂にて、
11名の僧侶・住職にて盛大に行われた。



⑤ その後、3兄弟は完全な孤児になった! 

9ヶ月間、フロに入ることが出来ず、” 着 の 身 着 の ま ま ”
暇があったら、シラミつぶしだったなー。
 
食物はそれ迄の 「盗みカッパライ」 が功を奏した!
どうにか死なない程度の食べ物には有り付いた。


⑥ 昭和21年8~10月/内地に引揚げ

 引揚げの時:❶ 奉天から貨物列車で1-2日間 、移動
❷ ー>ある所で、数日間 「野営」 させられた。その後、

❸ ー>ほぼ丸1日間、行軍させられた
僕は健三は抱っこしていたし、疲れと共にイライラしていた
ー>健三が布靴の片一方を無くしたことに気付いた


僕らの数少ない財産である!!!

俊二に八つ当たりして、

 「 靴を探してこい! 」 と。

延々と続く長蛇の列の行軍の後方に探しに行かせた。
    
しばらくして、「 兄ちゃん、無かった 」 、、、と。


「 だめだ!、もう一回、ちゃんと探してこい! 」

と、怒鳴った!、怒鳴った! 怒鳴った!


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ー>  この出来事は、
   俊二の人生の中で最も苦しく、
      きつく辛かったことだった・・!

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参照)引揚げ乗船前の行軍中のイライラ満州から孤児として引揚げた三兄弟


❹ ー>ある港(満州コロ島)から人間魚雷発射艦(?)にて博多へ
❺ ー>博多で1-2週間上陸禁止(コレラ患者が発生?)





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昭和49年1月、両側腎の”サンゴ状結石”が発見
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⑦ 昭和49年(1974)1月5日、俊二の両側腎臓の腎盂腎杯を埋め尽くす状態の、サンゴ状腎結石が発見された
,,,,,  

鹿児島市に在住していた僕の分身とも云える弟(次男)の俊二が、昭和49年1月5日に、風邪をひいた為に医院を受診した。
この時、背部痛もあったので、腹部単純X線検査を受けた。
 そうしたら「風邪どころではない。腎臓の部位に大きな結石と思われるものがある」と云われたと、僕に電話連絡があった。

僕は、昭和49年1月10日の妹(七重)の結婚式に、父親(脳梗塞後)代理として出席する為に 長崎から鹿児島に行く予定だったので、急遽、鹿児島市に出向いた。

 参照)父が脳梗塞で倒れる
 参照)巨大な両側性の珊瑚状結石が発見された

7. s49.1.5 俊二 珊瑚状結石/左右 立位 473-660

⑧ 俊二の腎結石発見3年後の昭和52年(1977)2月から、僕は埼玉県立がんセンター消化器科に勤務した。

埼玉県立がんセンター泌尿器科の田利先生は、腎切開によって取り出したホルマリン入りの両側性のサンゴ状結石の1例の経験があり、その標本をを見せてもらった。田利清信先生も1例のみの経験であった。

弟・俊二に手術を受けてみるかどうか説明したが、「 1例のみの経験だったら、人体実験に近いものだから、手術は受けない 」 とのことだった。


⑨ 俊二は、その後の数年間、特に大きな変化はなかったようだ。
 
時々、MRSA等の感染症、疼痛に悩まされながら、通院生活を続けていた。
  自動車は振動で腰が痛くなるが、バイクでは痛くならない、
とのことで、バイク通勤していた。
 医者が「尿の量を増やす方が良いと云った」とのことで、
大好きな ショーチュー の晩酌は欠かさないでいた。


⑩ 平成2年4月(発見から16年目)から、人工透析となった。

俊二は平成2年(1990)から "人工透析" を受ける身になった。


⑪ 平成10年、11年に2人の子供、娘と息子の挙式をあげた。

 俊二は同僚の経過から、「人工透析での予後は、8、9年位である」 と何時も話していた。
・・・その為なのか、
透析から8年目の平成10年10月に、長女の結婚式を鹿児島で挙げた。
そして、翌年(平成11年)の11月に、長男の結婚式に、車いすに乗った状態で、大阪:関空での挙式に出席した。


⑫ 平成13年12月4日、脳出血を発症。寝たきり状態となる。

 長男の結婚式の2年後(平成13年)(透析開始11年後)に脳出血を発症し、そのまま寝たきり状態になった。
意識がなく寝たきり状態の俊二を4年半の間、毎日、看病に通った妻:綾子さんに頭が下がる。
夫婦愛と云えども言葉も出ない。


⑬ 平成18年6月29日、意識が出ないまま帰らぬ人となった。

脳出血から、意識が出ない状態が4年半続いた後、
2006年(平成18年)6月29日 死亡した。

全経過は、
両側性の珊瑚状結石 発見から32年、
 人工透析開始から16年であった。




⑭ 俊二に、「 抜けた真ん中、帰ってきた3番目 」 の文章を捧げる」

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参照)抜けた真ん中、帰ってきた3番目
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タグ : サンゴ状腎結石 珊瑚状 腎結石 腎不全「靴を探してこい!

3.ラ・サール寮の思い出 【卒業50周年記念誌】


 鹿児島ラ・サール 四期生
 【50周年記念誌】 2005
     No. 3 ラ・サール寮の思い出




卒業五十周年記念誌、四期生 2005 282-198
3. ラ・サール寮の思い出 1 282-198 3. ラ・サール寮の思い出 2 282-198 3. ラ・サール寮の思い出 3 282-198


巻末に同級生名簿(2005年10月現在)が記載されている。



これによると、卒業生 186 名 (うち、10名,,,,,中途 入出)
    うち、28 名(死亡) / 11 名(不明)
 



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ラ・サール寮の思い出
,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,二ツ木浩一

はじめに

 われわれ4期生が入学した昭和27年4月は、ラ・サール学園が開校して3年目であり募集人員 200名で4クラスになった年である。その後、中学部が出来るまでの数年間は、1学年4クラス体制が続いた。当時、ラ・サール学園は鹿児島県中心に広く門戸を開いて(一部、熊本/宮崎県を含む)優秀な学生を集め、建物を整備し、男子高等学校としての体制を整えている創設期であった。

 そのため、寮の設備も不十分で、寮生の数は、我々が入学した昭和27年は
100名程度?
(集合写真上は82名)
であったようだが、
2年生になった昭和28年には150名以上?(集合写真上は127名)に増えました。しかし、我々が3年生になった昭和29年には寮に収容出来る人数は殆ど増加しなかった。


七名の特待寮生

 一般的に、寮の収容人数は3年生を除いた学生数の半分以下、約3分の1程度のようです。
故に、3年生になると大多数の者が退寮して、下宿生活を始めるのが習慣となっていた。大学受験を控え、誰からも邪魔されずに勉強しなければならないという自覚から退寮を決意した者が大多数であった。
しかし、寮に残りたいと思っても寮に収容する人数に限りがあることから、「寮の規則を破った」等の理由で退寮させられた者がかなり多数いたようである
1期後輩である5期生の場合は、寮の設備・勉強する環境が改善され、入寮できる人数も増えた為、そして下級生の入寮希望者が少なかった(?)こともあり、かなり多数が3年生の時も寮に残ることができたとのことである。

 我々4期生で、満3年間 寮生活ができたのは七名のみであった。その7名は、餅原(辻)正徳、平岡(竹崎)五郎、中島賢一、児玉鉄城、駒走武人、浜田七太郎、二ツ木浩一であった(餅原正徳君の記憶による)。 
 この7名が高校生活の満三年間を寮生活したのは、それぞれ皆何らかの特別な理由があったと考えられるが、その大きな理由の一つは経済的なことだったと聞き及んでいる。そして、理由は何であれ、学園側でも満3年間 寮に留まることを特別に許可した訳なので、その意味では「七名の特待寮生」といえるだろう。


舎監アドリアンの思い出

 小生は、寮の規則を2、30回以上は破った。
その大多数は門限破りであった。
それでも、最後まで寮に居られたのは、多分、門限破りは規則としては非常に軽いものであったのだろうか。それとも、2年生の時に寮長をしたこと? 或いは、門限に遅れるといつも小生のベッドの近くでうろうろしている舎監ブラザー・アドリアンに対して、童顔で、さも申し訳なさそうな神妙な顔つきで「I'm sorry... I'm sorry...」と本心から謝っている(振りをしていた)態度が、誠実で真面目な学生であると映っていたためかな・・・と思っているが、真偽のほどはわからない。
 舎監ブラザー・アドリアンは規律に厳格な、われわれ寮生にとっては非常にうるさい人であったが、思い出に残る懐かしい人である。


寮生活の日課

 寮での生活は、起床時間は午前6時であり、5時に起床することは可能であったが、6時以前に起きたものは非常に少数であったと思う。そして、どんなに遅くても、こっそりと7時からのラジオ体操には間に合うように起きて、朝食をとる。
昼食は正午からの1時間であり、夕食は午後5時からであった。
 そして、午後7時からは義務としての自習時間となる。その自習時間は原則として私語は厳禁であったので窮屈で退屈で・・・。そこで、全員をリラックスさせる目的で、ふざけるのがそもそもの目的ではあったが、フランス語の発音をもじって大きな声で「ハックショオオーーンンン」を連発。この静寂を破る演技は、小生以外にも2、3人は居り、時には大合唱になったこともある・・・。
 その為であろう、小生のクシャミは現在でも、とてつもない大声で3、4回は連発してしまうはめになってしまった。歳をとる度にその回数は増えており、二ツ木の大声でのクシャミは有名である。ある人に言わせると「みっともない」とのことだが。これだけは「どうにもとまらない」のでありまーす。自分にとっては青春時代の思い出の発声であり、自慢の数連発でもあります。

 なお、自習時間の途中、8時半頃に谷山町電停近くのラーメン屋で腹を満たした時間は楽しいひとときであった。
 消灯時間は午後10時であった。3年生になると自習時間が増えて、就寝は1時間延びた。
 寮の寝室は、講堂のように広い大部屋に二段式のベッドが、ぎっしりと並んでいた。この建物は朝鮮戦争の廃物利用の兵舎(?)と言われていた。終戦後20年も経っていない時でもあり、もちろんエアコンなどあるはずはなく、冬は寒く、夏は暑かった。とは言っても海沿いであるので、内陸よりも寒暖の差は非常に小さく、そう寝苦しかったという思い出はない。むしろ、一般に、「夜風に当たって寝ると体に良くない」と言われているが、海風という夜風に当たって寝る夜は体調を崩すこともなく、むしろ快適であったと言える。
 入浴は、1年生の終わりの頃(?)に寮の奥の方に入浴場・洗濯場などが設置さるまでは、近くの銭湯に隊列を組んで繰り出して行った。
 なお、個人の私物を収納する場所は、講堂 (St. Joseph's Hall) の左右の壁面に設置されていた小さなロッカーであった。
1953(s28).9.28 寮生一同・原画 294-206 282-198


寮での食事と娯楽

 この寮の左側に食堂が建っており、更にその左隣に娯楽室があった。
 寮の食事は美味しいとかまずいとか言うことより、満腹になることは少なかった。いつも空きっ腹の状態でいたので、少し懐が豊かなときには学園の校門前の店でパンを買い、授業時間中の午前十時頃に勉強机の蓋を持ち上げてこっそりと腹を満たしていたことを思い出す。その時の味が忘れられないのか、小生は今でも「あんパン」が大好きである

 寮の食事で忘れることが出来ないものがある。ときたま、
コッペパン に マーガリン と 砂糖、牛乳
がだされることがあった。
これは、食生活が豊かになった今日でもかなりいけるメニューである。

 娯楽室は、カマボコ状のトタン板製(?)の簡易建築物であった。進駐軍が使用していた簡易兵舎を払い下げて貰い、その建物の内部を改良(畳を敷き)したものであったとのことだが、居住性はそれほど悪いものではなかった。トランプ/将棋などに興じていた為であろうか、時間の経つのも忘れて自習室に戻るのをサボったこともある。
 なお、食堂についてであるが、小生の記憶には殆ど残っていないが、入寮した当初は入学試験の成績順で席順が決められていたとのことである(餅原正徳君の記憶による)。このため、誰が自分よりも成績が良かったかが一目瞭然であり、
これは競争意識を持たせて勉強に打ち込ませるというラ・サール独特の「family spirit」の賜物であろう・・・か・・・


寮生の勉強環境

 勉強部屋としての設備はなく、学校の教室そのものが代用されていた。うら寂しい限りではあるが、強いてこの利点を挙げれば、自分の机で自習していれば始業時間を迎えることができ、そして授業が終わった後にはそのまま自分の机で自習できたことであろう。

 しかし、3年生に対しては、寮の1部に、狭い場所ではあったが、特別に自習室が設置されたのである。やはり、3年間寮生活を送ることができたわれわれ七名は、「七名の特待寮生」と称されて良いのかも知れない。

 一般に、入学時の成績は市外組よりも市内組が上位を占めていたが、学年がすすむにつれて逆転してきていた。成績の良し悪しは、生まれ持った頭脳の良し悪しに影響されるであろうが、勉強の質が重要である。さらには、勉強する量に起因することが非常に大きいのではないかと思われる。市内組は通学時間あるいは種々の雑念などで、寮あるいは下宿主体の市外組よりも勉強に当てる時間が少なかったからであろう。


小松原へのノスタルジア

 我々が寮生活を送った当時、校庭の先、小松原海岸の先はずっと遠浅の海で、夜間泳いでいると何時の間にか満潮になり、遥か彼方の沖にまで流されていて海岸までたどり着くのが大変であったことを思い出す。
 現在はこの遠浅の海は全て埋め尽くされ、どこが海であり、どこに小松原があったか想像することすら難しい。遥か彼方の沖であった筈のところにも道路・建物・ビルがぎっしりと建っていて、嘆かわしいというか、寂しい印象を覚えるのは自分だけではないのでは?

 昭和27年から昭和30年の我々が学生の頃は、台風が年に数回、鹿児島に上陸あるいは近接していた。それ故に、台風が到来する度に海岸の砂が校庭を埋め尽くして、体育の時間の殆どが「モッコ運び」であったという思い出
が強力に残っている。

 我らが過ごした時代の学園は校舎などの建物も少なくてガランとしていたが、情緒ある風情をかもし出していた。しかし、今や所狭しと校舎などの建物が立ち並び、桜島を一望出来る海岸・小松原沿いにあった我らのラ・サール学園が、いつの間にか市街地のど真ん中に移ってしまった風情である。訪れてみても、我らが知る母校の面影はなく、母校という感じが無くなってしまったのは寂しい限りですなあ。
 しかし、中学部ができて学生も教官の人数も増えたのにもかかわらず、その敷地は大きく増えないのでは仕方がないかな。しかも、50年も経てばさまざまなものが大きく変わるのは当たり前であろう。50年前と言えば、あまりピンと来ないが、半世紀と言えばギョッとするほどの年月である。
 われわれが過ごしたラ・サール学園は、半世紀も前のことである。・・・あー、半世紀前よ!


あとがき

 この寮生活の体験記を記述することになった経緯は、編集者から「今回の卒後50周年記念誌には、各クラブ活動などを紹介するエピソード特集のようなものを企画してみたい。ついては、君は寮に満3年間いたことだし寮のことを書いてくれ。」との要請があったからである。そこで書き始めたが、忘れていることが多く、思い出すことすらできないこともあり、こんなに頭が悪かったのか、もうボケが始まっているのか、と散々悩みました。
 今、こうして、満3年間 寮で過ごした青春時代のことを思い出し、平岡五郎君、特に餅原正徳君の助けを借りながら、何とか記述出来たことで、ホッとしています。



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タグ : 鹿児島ラ・サール 四期生 50周年記念誌 ラ・サール寮

プロフィール

kagonmakouchan

Author:kagonmakouchan
昭和19年11月25日撮影。
左の健三が満1才の記念写真。
右の俊二は5才4ヶ月、
中央の僕は8才8ヶ月である

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