平原まことさんのコンサート


 平原まことさんの最近の代表的なコンサートは、
 「アキラさんとまこと君 ふたりのオーケストラ」
 と、「平原さんちのコンサート」であると云える




平原まことさんは、僕のジャズの恩師である平原勉さんの息子さんである。
平原勉さんは戦後、トランペッターとして大阪で活躍し「東の南里文雄、西の平原勉」と人気を二分した人である。
昭和30年、長崎に活躍の場を移した(「平原勉とゴールデンエーセス」)。
僕は平原勉さんのバンドに昭和32年から在籍し、本格的に4ビート・ジャズ演奏のドラマーを務めた。【「デキシーランドジャズ」〜「スウィング・ジャズ」〜「モダン・ジャズ」】

平原まことさんはその当時は幼稚園生であり、僕は「マコちゃん」「マコちゃん」と可愛がっており僕にとっては非常に懐かしい坊やであったが、今や円熟したおじさんになっている。かく言う僕は後期高齢者である。
なお、まことさんのお母さんの愛子様は短期間(⒊,4年間)ではあるが、僕の母親的存在であった。

昭和48年ころ平原勉および愛子様が、僕を訪ねて長崎市に来られた。
非常に懐かしく話に花が咲いた。
僕以外に平原勉さんと親しかったミュージシャンは長崎市には残っていなかった。


平原さんちのコンサート」

1) 2011.8.8 「平原さんちのコンサート in 洗足学園」

洗足学園において 「平原さんちのコンサート」が行われることを知った。
演奏会場が学園内であるので入場券の求め方が分からなかった。そこで、まことさんにメールで頼んで二枚手配して貰った。
入場券代は洗足学園内の演奏会場入口で支払えば良いとのことだった。

洗足学園内では大勢の人達が2つに分かれて並んでいた。そしてその1つの行列が入場券を持たないグループだと分かったので、その列に並んで入場券とパスカード(演奏後の楽屋裏への許可証)を入手した。
なにせこの日は暑かった。

そして演奏終了後に楽屋裏で平原まことさん一家とお目にかかることが出来た。

平原まこと父娘さん達と 175 123       平原さん達と1 175 123
平原まこと、aika、綾香さん達と僕ら夫婦        平原真作さん(まことさんの兄)加わる

2)2013.12.8 「平原さんちのコンサート in ねりま」

2年後の2013年末の練馬文化センターでのコンサートチケットも平原さんにメールで頼んだ。そうすれば終演後に楽屋裏で面会出来ることを知ったからでもある。
平原さんち in ねりま1 175 123                         2013,12.8 平原さんちのコンサート in ねりま 150 215
平原まこと、aika、綾香さん達と僕ら夫婦

3)2014.12.13 「平原まことプロ生活40周年 記念コンサート」

2014年末に洗足学園で「平原まことプロ生活40周年 記念コンサート」が行われた。
圧巻だったのは終演前に約100名位のサックス奏者を集めての演奏だった(洗足学園音楽大学オーケストラ)。
このサックス軍団は音楽的にはまあまあだった・・・かな。

40周年/浩一と平原まこと2 175 123       40周年/平原まこと2 175 123
平原まことさんと僕                         平原まことさん

4)村上アナウンサーのトークライブ 『まことのサックス』

2015.6.21 恵比寿アート・カフェ・フレンズにおいて村上アナトーク平原まこと 150 215
村上アナウンサーのトークライブ 『まことのサックス』 が開演予定だったし、僕は万難を排し入場する予定であった。

しかしながら、僕は入場することは出来なかった。その理由は下記の次第である。
僕は諸事情の為に2015年3月いっぱいで、埼玉県立がんセンターのあと16年間勤務していた病院を急遽退職した。
急に辞めたことのフォローのため4月末日まで外来患者の診察を行った。
5月末は久しぶりに学会参加(名古屋)し、学会を堪能した。
しかし、

6月12日”急性心筋梗塞”を発病し生死の境をウロウロし、7月1日退院した。


このために 『まことのサックス』を見に行けなくなったのだが、入場券の手配はどのようにしたのだったのだろうかと今頃になって心配になった。まことさんに依頼していた?のだったら・・・


「アキラさんとまこと君 ふたりのオーケストラ」

2011年5月1日、東京⽂化会館 ⼩ホールに14時 2011.5.1 アキラさんとまこと君 ふたりのオーケストラ 150 215
からの「アキラさんとまこと君 ふたりのオーケストラ」を聞きに行った。
テレビでは2,3回この番組を見たことがあるが、生で見るのとテレビ画像で見るのは雲泥の差であった。

僕はマコちゃんの幼稚園生のころを思い出して大    1958(s33) 平原智マコト6才 150 215
感激だった。                                          平原まこと(智)【小児時代愛称:マコちゃん】


そしてお父さんの平原勉さんのことを思い出しながら、まことさんの演奏を聴いていた。
        
まことさんは僕ら夫婦が来場しているとは知らなかったはずである。そして高齢者となった僕の顔は知らないはずである。
何かのことで僕のことを知っていたからなのか、偶然なのか、ステージから降りて僕の真後ろで”グロウ・トーン”で曲を奏でた。ジーンときた!


参照)サックス特殊奏法 | サックス フイテマス
参照)第45回 しゃがれた音色を出すグロウ・トーン①

「アキラさんとまこと君 ふたりのオーケストラ」の公演は、2010年9月23日の神戸芸術センター(新神戸駅前)での公演が初回のようである。
33回目の2016年6月26日の兵庫県姫路市パルナソスホールでの公演以後は組まれていないようで、これでこの公演は中止なのでしょうか?


平原勉および愛子様の墓参をする

平原まこと様のご両親、平原勉および愛子様の墓参をすることになった。
平原勉および愛子様は短期間ではあるが、僕の青春時代の”お父さん、お母さん”的存在であった。
僕の外国への学会出張と重なったとはいえ平原勉および愛子様お二人の通夜・葬式には出席していない。

そこで、まこと様のお兄さんである平原真作様宅を訪問することにした。
2012年6月9日墓参のため、大阪市・豊中市に向かった。
その日の夕食は僕が宿泊する千里阪急ホテルで中華料理をご馳走になった。

翌6月10日に真作宅を訪問し、墓参した。
帰宅する時は夕方になったこともあり、豊中市から自家用車で新大阪駅まで見送って戴いた。

平原真作・眞智子夫妻と浩一 175 123       平原真作・眞智子夫妻 175 123
僕と平原真作・眞智子夫妻                     平原真作・眞智子夫妻


僕の孫への期待

僕の孫はサックスを吹いている。一生懸命であるようだが、僕が若い頃にドラムを始めた時と同じように自己流である。
上手くなって欲しい!・・・勿論プロを目指すわけではないが。

もし、平原まことさんが僕の孫の面倒を見てくれたら、親子二代(平原勉、まことさん)から僕と孫が指導を受けることになる。
夢の夢物語にすぎないことだろうが・・・


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戦後の悲惨さを描き続ける面高春海画伯


 子供の時の目に焼き付いた
 「満州での戦後の悲惨な情景」を
 描き続ける”面高春海”画伯



「カーちゃん大変だ!乞食の集団が大勢でコッチに向かって来るよ」・・・それは日本人の集団だった!!!   

戦後間もない新京(旧満洲国の首都)でのことである。
中国人の乞食(物乞い人)の人達だと思ったら、それは日本人だった。このことに衝撃を受けた裕福な家庭の小学3年生の面高春海坊ちゃん。

小さな体の春海君の心に大きなシコリとしていつまでも重くのしかかっている。
このことが面高春海君が”戦後の悲惨な情景”を描く原点になっている。



戦車がやってきた。ソ連兵は物品を略奪し、女性を強姦した!
そして、面高家の自家用車として使っていた馬車二台の馬がいなくなった・・・


戦後70年を経過した今でも、絵画を通じて心のシコリになっている悲惨な情景を描写し、訴え続けている。
「戦争は怖い、悲惨だ!避けなければならない!」



・・・・・このことに対する執念が面高春海画伯の”生き甲斐”になっている。






 z130808-omodaka-c0005 450 376
2013年 F130号

 c のコピー 450 420
2005年 S100号

 IMG_1567 450 450
2016年  S100号

 2012.8.3 面高=独立展用 450 224
2012年 200号

 Z160819-omodaka-b0001 450 248
2016年 200号

 z120802-omodaka-b0003 450 221
2012年 200号

 z130808-omodaka-c0003 450 246
2013年  200号

 z130808-omodaka-d0005 450 242
2013年 200号

 Z160819-omodaka-b0003 450 248
2016年  200号


”独立展”20回入選を目指して

”独立展”の成績は17勝3敗。あと3勝して20勝まで頑張るのだと意気込んでいる現在80才の気力あふれる老人である。
右手の腱鞘炎手術、心不全も心筋焼灼術で乗り越えて頑張っている面高春海画伯
独立展に応募するためには100号以上の絵画を3点以上、毎年描かねばならない。
(1号がハガキ一枚のサイズだから、タタミ2畳以上の絵を3枚も)

「金はかかるし、体力が必要、気力のみだよ、命がけだよ・・・」

                                                面高邸宅-長春 155 110
プロフィール                      面高邸・・・2階の左端の部屋が春海さんの部屋
祖父母の代から満州に居住。春海画伯は昭和11年6月14日満州・新京生まれ。
小学校は”長春敷島国民学校”。(4年生1学期まで)
旧満州・新京での邸宅は写真に示したように大邸宅で、隣接する会社(面高製材所)の敷地内にはトロッコレール、おび‐のこぎり【帯鋸】、帯鋸の刃を研ぐ自動目立て機がある大きな製材所であった。この大会社・大邸宅は満人(現地人)に略奪・没収された。

戦後30年目頃、叔父達が長春に行き製材所が中国人によって運営されているのを見て来ている。

戦後、失意のうちに昭和21年10月鹿児島市に引き揚げて来た。

小学生の頃から絵心はあった。中学校は城西中学校、高校はラ・サール高校。

僕も同様に絵心はあったし、中学・高校の同級生である。大きく異なる点は”僕は満州では孤児として盗みカッパライで生活した”ことであろう。

会社定年前の約5年間、夜学に通って絵画を本格的に勉強をした。
1997年、会社の定年と共に”独立展”に応募し初入選、現在に至る。

参照)面高 春海 | Facebook




ラ・サールの同級生数名が僕に言った・・・

面高君は、あんなヘンテコリンな馬鹿でかい絵しか描けないのかな

・・・と。
僕は悲しかった。「皆もう少し絵心があればなー」。

面高春海画伯がニュージーランドで描いた風景画のスケッチブックを供覧した。

同級生曰く

面高君は風景画も描けるんだ

・・・と。

・・・・・・・・・・
そこで、桜島の絵(3号)を3万円位でラ・サール高校4期生・同級生に買って貰って、仙台市のラ・サールホーム(児童養護施設)に寄付するプロジェクトが立ち上がった。
金を出したのは同級生達だが、見返りに低価格で絵画を得ている。結果的には、面高春海画伯寄付行為であった。




風景画、肖像画、スケッチ

 IMG_1014 2 200 280      プティ校長(画質4倍) 471KB 200 244
裸婦像・・・武蔵野美術学園での習作       肖像画・・・初代ラ・サール校長

       MG_0118 200 138      IMG_0831 200 138
      面高家近くの「水城公園」                    風景画「荒船山」

 IMG_0841 200 184      IMG_0957 (1) 200 169
風景画「日南海岸」                       風景画「鳥海山」・・・最上川左岸の余目から

       IMG_0576 200 135      桜島 校庭校舎 200 134
      スケッチ「裏磐梯」                        風景画「桜島」・・・ラ・サール旧校庭から



大泉町での展覧会、その他


 IMG_4477 200 154      2012.08.大泉町での作品展 200 154
2012.08.大泉町での作品展・・・面高春海画伯が解説している

       M1 名称未設定7 200 150 M2 名称未設定 200 150
      自宅での風景画(約50点)の展示









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このブログ(自分史)の目次

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       最終更新日:2017-4-2

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最新ブログ(更新したもの) 2017.02.22

245. 太陽族気取りでキャンプ場へ、昭和31年
246. 40℃の高熱後に僕は意識喪失した
247. ブログ取材旅行
248. ラ・サール高校4期生, 古希の祝い
249. 戦後の悲惨さを描き続ける面高春海画伯






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第一部 満州からの引揚げ(孤児、満州三兄弟)

01)満州からの引揚げ
02)上海での優雅な生活 - 幼少時から小学校低学年
03)上海での優雅な生活 - 新公園の思い出
04)上海での優雅な生活 - 狄思威路アパート
05)感激の瞬間、アパートの部屋発見
06)貧困な中国社会、その後の発展
07)「人民元」と「兌換元」
08)僕が経験した上海の現実
09)日本海軍特別陸戦隊
10)小学生の僕が美味しいと思った食べ物
11)上海から、満州・奉天へ疎開
12)ぼた山に人骨ギッシリ
13)[ぼた山に人骨ギッシリ] の考案 - アメリカおよび日本の狂気 == 外国から約300通のコメントあり、非公開とした
14)終戦、そして西本願寺に逃げ込む
15)ソ連軍、八路軍、そして国府軍の駐留
16)母ちゃんが死んじゃった
17)シラミと過ごした8ヶ月間
18)誰か食べさせてくれた人がいたか
19)盗みカッパライで食べた孤児の生活
20)優しかった満人の露天商(ポップコーン、煎餅)
21)満人の「人さらい」はいない
22)人殺し方法を夢見た日々
23)まる裸・フリチンで市内を縄跳び、捕まった
24)戦後の学校教育、冬の「三寒四温」
25)虫食いだらけのビスケット
26)引揚げ途中、10円貰ってオニギリ1個
27)引揚げ途中での悔しさ
28)引揚げ乗船前の行軍中のイライラ
29)引揚げ行軍中の生涯忘れえぬ大感激
30)人間魚雷発射軍艦(?)でコロ島から博多港へ
31)下船延期、博多の検疫病院に健三が入院
32)無一文引揚者に対する金銭援助・給付金
33)帰郷後、僕らを探してくれた人
34)奉天(瀋陽)を訪れる
35)メッセージになる僕らの体験
36)【付録】貧困な中国社会、その後の発展
37)【付録】アメリカおよび日本の狂気【本/社会】
 == 外国から約700通を超えるコメントあり、非公開とした
38)「自分史を書くに至った理由」
39)抜けた真ん中、帰ってきた3番目





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第二部 小・中・高校生時代(帰国後)

40)感心感心と云われて戸惑う、兄弟三人の引揚げ
41)全く分からない鹿児島弁
42)鹿児島の女性差別
43)小学生生の決闘、喧嘩の順番
44)雪の中を裸足で登校、小学生の時
45)川泳ぎ、大雨後の増水時に流される
46)川釣りを楽しむ
47)銀しゃりをたらふく食べた食べた
48)カイコさなぎの味噌汁、食べさせられた
49)ニッキの木の根をかじった
50)父の生前遺言「親兄弟でも保証人になるな」
51)小学生の僕が営業した貸本屋
52)金回りが良いのでチビのガキ大将になった
53)僕はレンタルビデオ店の先駆者だ
54)小学生の時の遊び(1)夢中になった遊び
55)小学生の時の遊び(2)特に熱中した遊び
56)父の再婚、健三を養子に出す
57)父への反抗、継母いじめ
58)健三「生みの親より育ての親」
59)真空管ラジオの制作、小学5年生
60)僕は勉強できると判明、鹿児島市内の中学に転校
61)僕は家を出て、長男としての任務は俊二へ
62)親に内緒でラ・サール高校を受験
63)開校当時のラ・サール高校の環境
64)ラ・サール高校でのクラブ活動
65)タイプライターで肖像画を描く
66)ラ・サール学園のハーモニカ部
67)ハーモニカ独奏について
68)分散和音奏法、ハーモニカ独奏
69)ラサール高校寮の環境
70)寮生の食事、娯楽、勉強環境
71)ラ・サールでの猛勉強の経験
72)工学部志望、このため浪人を希望
73)念願の予備校生活
74)4ヶ月間で浪人生活挫折
75)桜島の爆発、昭和30年
76)本に収まるポータブルラジオの制作
77)肺結核に対する恐怖心





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第三部 大学・医学部時代(ジャズドラマー)

78)トランプで決めた医学部への入学
81)医学部・教養時代の生活
82)いいアルバイトと、キャバレーを紹介された
83)「水酌んでこい」「タバコ買ってこい」
84)ロカビリーを聞きに東京に行く
85)ミュージシャンの生活環境
86)ジャズの歴史
87)デキシーランドバンドに紹介された
88)平原勉のデキシーランドバンドの経験
89)ドラマーとしての評価を得た!
90)博多のキャバレーでの経験
91)父「それも良かろう今迄通り金送る」
92)長崎の「銀馬車」にドラマーとして勤務
93)ジャズ喫茶に出演
94)「重いリズム」「軽いリズム」
95)帰省中に、布団一式等が入質されていた
96)僕が好きだったジャズプレイヤー
97)非常にノリが良いピアニストとの出会い
98)バンドマスターの経験
99)僕が持っていたジャズレコード
100)フルバンドをコンボスタイルでドラミング!
101)ジャズバンドの構成
102)"アドリブ" と "フェイク"
103)ジャズの分類、三つのジャズスタイル
104)念願かなってビッグバンドのドラマーに
105)外人ショウを途中で中止させた!
106)ドラマーとテクニック
107)ビッグバンドの『ジャンゴ』
108)ジャズアルバイトから完全に手を引く 昭和37年

109)棘突起過敏症、そして肺結核に罹った
110)入院しながらの卒業試験
111)急性虫垂炎の手術、術後、緑膿菌の皮下膿瘍
112)3ヶ月遅れのインターン生活  昭和38年
113)インターン生、医師国家試験前に僻地に出張  昭和38年


114)学生ジャズバンド "スイングボート" 結成  昭和38年
235)長崎大学スイングボート "定期演奏会" 昭和39年
191)新宿ピットインでジャズを楽しむ 55年頃 昭和55年 <= 第六部
192)タモリの店でジャムセッション、2時間 昭和55年 <= 第六部
236)「新長崎市史」 に僕のことが掲載された 2015.1.31





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第四部 大学院時代(アフリカ滞在 1年)

115)大学院でウイルス学を研究することになった
116)アデノウイルスの研究
117)アフリカに行くことになってしまった!!
118)アフリカへの珍道中1 パスポートを忘れた
119)アフリカへの珍道中2 もう飛行機に乗らない
120)アフリカへの珍道中3 インドでコーラ飲む
121)ケニア:ナクールの観光
122)「ムワンザ」到着直後、HeLa細胞のジャー爆発
123)#1 タンザニア「ムワンザ」での日常生活
124)#2 タンザニア「ムワンザ」での日常生活
125)東アフリカに於けるウイルスの研究(1)
126)東アフリカに於けるウイルスの研究(2)
127)ムアンザの夜の顔
128)軍隊内のダンスパーティーで踊り明かす
129)ビクトリア湖畔でくつろぐ
130)ウガンダのウイルス研究所を訪れる
131)タンザニアの道路、交通事情
132)無免許、酔っ払い運転
133)Williamson ダイヤモンド鉱山
134)セレンゲティ動物園へ
135)エピソードあれこれ、タンザニア
136)『マライカ』というタンザニアの歌曲
137)アフリカの土産物
138)銀行を摂取された! 至急帰国になった
139)イミグレーション:ビザを1ヶ月延長
140)タンザニアとおさらば
141)ケニアを観光して、アフリカを離れる
142)帰国した! = バンコック、香港を経由 =
143)ポレポレのタンザニア、コセコセの日本
144)世界一長い英語論文を書いた





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第五部 医師として(長崎時代)

145)呼吸器を辞めて消化器専門になることにした
146)ゴルフは絶対にしない!
147)歌舞伎町 1夜で15万円!、昭和44年
148)苦しくない胃内視鏡検査
149)胃X線検査法に凝りに凝る
150) EBウイルス感染症か:高熱とリンパ節腫脹
151)昭和30年代の長崎の経済状態【追記】 => 89)の後半へ転記
152)東望病院での診療業務、家庭サービス
153)父が脳梗塞で倒れる
154)白壁彦夫先生に僕の強烈な印象を与えた
155)佐世保市立総合病院に勤務した
156)日中は診療に明暮れ、夜は "軍隊バー" へ
157)長崎の「早期胃癌研究会」
159)長崎大学病院の文部教官になった
160)「病理組織型別にみた胃癌の鑑別診断」
161)多くなった癌の主題:地方会のシンポジウム
162)巨大な両側性の珊瑚状結石が発見された
163)満州孤児の時の、弟・俊二のワダカマリ
164)紅葉見物「枯葉を見て何が楽しい」
165)胃穿刺吸引細胞診、1973年
166)文部省科学研究費 一般D、個人研究費
167)内定していた学会長を奪い取ってしまう
168)内視鏡学会長が分離独立した理由
169)実行委員として合同秋季大会(長崎) の準備
170)合同秋季大会(長崎)、学会当日の運営
171)田代美代子とデュエットした
172)「カキフライを食べよう」、柿フライ?
173)グルメの僕、特に魚介類が好物
174)死ぬ思いでフグを食べた
176)ライフワークの臨床的研究を論文に出来ず
177)長崎大学医学部の学生運動、昭和50年前後
178)僕は「真性多血症の疑い」ありと
179)息子が「ラ・サールに入学したい」と
180)「君マージャンするかね」と、村上教授
181)長崎大学を辞めて、埼玉に行くことに





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第六部 埼玉県立がんセンター

182)採血しない看護婦、埼玉県立がんセンター
183)埼玉まで鳴り響いていた僕のドラマー
184)急性膵炎の為3ヶ月で12Kg体重減少
185)全身麻酔で声帯ポリープを切除
187)埼玉県立がんセンターでの勤務状態
188)灰色の巨塔1、開設時の埼玉県立がんセンター
189)灰色の巨塔2、開設時の埼玉県立がんセンター
190)アジア太平洋内視鏡学会で発表、s55年
191)新宿ピットインでジャズを楽しむ 55年頃 =>=>第三部
192)タモリの店でジャムセッション、2時間 =>=>第三部
193)厚生省から医療援助で沖縄に派遣された
194)抗癌剤のみで完全に治癒した進行胃癌症例
195)進行癌に対するレーザ治療
196)週刊誌グラビア特集の一面に掲載された
197)「ガン告知」がない時代が良かったか1
198)「ガン告知」がない時代が良かったか 2
199)「がん告知」の功罪
200)中心静脈栄養法カテ挿入ミスで大事故
201)「中心静脈栄養法」の進歩、発展
202)「中心静脈栄養法」の発展、CVポート
203)手持金10万円で49坪の一軒家を建てた
204)灰色の巨塔3、昭和50年前後の大学の医局
206)ミュンヘンの国際学会でレーザ治療成績発表
207)「先生は共産党員ですか」と
208)消化器内視鏡学会 埼玉部会の設立
209)厚生省がん研究助成金
212)癌性腹膜炎に有効な "MFP 療法"
213)第8回消化器レーザー内視鏡研究会を主催
214)僕とアツレキを生じていた? 父亡くなる
216)当センター大腸疾患の専門家、若くして急死
217)第8回日本消化器内視鏡学会関東セミナー主催
218)母の「50回忌」
219)業績1:病理組織型別にみた胃癌の鑑別診断
220)業績2:癌に対する化学療法
221)業績3:進行がんに対するレーザー治療
223)業績4:バルーンによるレーザー温熱療法
224)業績5:免疫、X線、症例報告
225)業績6:ウイルス学、その他の研究
226)埼玉県立がんセンター退職 





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第七部 雑文、その他

79)「ブーマージャン」
80)「カラ打ちパチンコ」
158)【考察】医者と製薬業界との関係
175)アルコール飲料は放射線防護剤になるか?
186)トランプ占いによる医学部入学、後日談
205)「川身変更の由来」残念至極の先祖の古文書
210)医学的 "差別用語"
211)医学用語・医学略語
215)レセプト病名、保険病名、カルテ病名
222)ルーレット必勝法(確率からの検討)
227)完全な禁煙に成功、55才 
230)風邪に抗生物質は効かない


第八部 がんセンター退職後

228)"雇われ院長" として勤務1
229)"雇われ院長" として勤務2
231) リハビリ専門病院に勤務  <= 2014.4.15更新
234)お母さん(継母)死亡、2004年 <= 2014.5.11更新
237)ラ・サール4期 卒業50周年記念同窓会 <= 2014.8.17更新 

238)1.学園生活 卒業その後【卒業50周年記念誌】 2015.8.20更新
239) 2.ハーモニカ部 【卒業50周年記念誌】 2015.8.25更新
240)3.ラ・サール寮の思い出【卒業50周年記念誌】 2015.9.4更新
241)弟が”サンゴ状腎結石”由来の腎不全で逝ってしまった
242)僕の左脳に未破裂脳動脈瘤が発見された 10.7更新
243)パンを一口かじったら形が変わった!、ごねる僕 11.23更新
244) 学会出張中に伯母死亡の訃報、急遽帰郷す 2017.02.15更新
245) 太陽族気取りでキャンプ場へ、昭和31年
246) 40℃の高熱後に僕は意識喪失した





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第九部 国際学会、海外旅行

232)CPT-11 治験発表、ASCO 1993  <= 2014.4.27更新
233)"ディズニーワールド" 観光、1993年 <= 2014.4.30更新


最新ブログ(更新したもの) 2017.02.22


247. ブログ取材旅行
248. ラ・サール高校4期生, 古希の祝い
249. 戦後の悲惨さを描き続ける面高春海画伯




タグ : ブログの目次

ラ・サール高校4期生, 古希の祝い


 「ゴールデン・エイジへの改めての出発」
 をスローガンとし満70才を記念して
 2008.10.23.に”古希”の会を東京で開催した




鹿児島ラ・サール高校4期生の東京同窓会は僕が埼玉に出てきた数十年前から、故平川正徳君を幹事として毎年六月の最終土曜日に行われてきた。ここで云う同窓会とは”同期会”・”同級生会”である。

”OB会”としての卒業生全体を対象にした所謂”タテの会”は毎年5月頃に「ラ・サール学園同窓会 東京支部総会」として開催されている。
”タテの会”とは二ツ木が良く用いる独特の造語である。

平川正徳君が4期生の東京同窓会幹事の頃は中華料理店で行われることが多かった。そして二次会は赤坂の小さなクラブで行われていた。

平川正徳君の没後は椎原晩声君を幹事として平川君が開催していた同じ日(毎年6月最終土曜日)に”ホテルルポール麹町”にて行われている。
なお、僕の知る限り今までに1回も中止されたことはない。毎年6月の最終土曜日は4期生の東京の”同期会”の日である。

4期生の東京同窓会は東京周辺の都道府県から、そして鹿児島、福岡、大阪などからも数名であるが集まってきている。
在住しているラ・サーリアンが鹿児島よりも東京周辺の方がやや多いこと、そして集まりやすいことにあると思われる。

三年前に4期生卒業50周年記念大会を鹿児島市で盛大に行ったばかりではあるが、今回は東京で”古希の会”を10月に行うことになった。
   参照)満州三兄弟卒業50周年記念同窓会、ラ・サール4期

勿論6月の例会は行っている。その時に役員その他詳細なことが決められたようだ。

 ◎1 スローガン74=53周年 451 316

前夜際(夕食会・飲み会)

総会の前日(10月22日)夕方頃から六本木界隈で夕食会・飲み会が行われた(世話役:西村雅男君)。

長崎大学医学部に一緒に入学した崎元 卓君と毎田徹夫君が前夜際から上京していたとのことを総会時に知ってびっくり。僕が前夜際から出席していれば約40年ぶりにいろいろ話しが出来たのにと非常に残念だった。

総会当日、午後からの催し物

1)囲碁会(世話役:柳 克樹君)
われわれ4期生の中では囲碁が最も強いといわれている柳 克樹君を世話役として総会当日(10月23日)13時から約3時間半、熱戦が繰り広げられた。

 ①1 018=囲碁=53周年 175 123  ①2 022=囲碁=53周年 175 123

2)写真・書籍展示(責任者:西村雅男君)
 総会会場近くの一室を利用して、総会当日(10月23日)13時から西村雅男君を中心に写真・書籍類が展示公開された。

 ②1 065=写真展=53周年  ②2 041=写真展=53周年 175 123


ラ・サール4期”古希の会”総会・夕食会

古希の会”総会は、10月23日16:00に受付開始、17:00に入場案内そして各クラス別に集合写真を撮影して17:30から総会が開会された。

出席者数
出席者は「A組」:18名+同伴女性4名、「B組」:16名+同伴女性5名、「組」:17名+同伴女性2名、「D組」:20名+同伴女性7名、合計:71名+同伴女性18名であり、4期生卒業者174名に対する出席率は40.8%であった。

 ③1 A組=集合写真=53周年 451 316
・A組

 ③2 B組=集合写真=53周年 451 316
・B組

 ③3 C組 =集合写真=53周年 451 316
・C組

 ③4 D組=集合写真=53周年 451 316
・D組


総会・食事会・二次会

総会は17:30から行われ、20:20:中締め、20:30から二次会が行われ、22:00にお開きになった。

 ④1 081=53周年175 123  ④2 229=53周年175 123


 ④3 082=53周年175 123  ④4 281=53周年175 123


 ④5 293女性陣  ④6 232男性人175 123


 ④7 243=53周年 180 125  ④8 252=53周年 180 125



僕らは総会・食事会などが終了した後には、全員が手をつないで輪をつくり「ラ・サール讃歌」を歌って散会するのが慣わしになっている。


 ④9ラ・サール讃歌1 200 250        ④10ラ・サール讃歌2 200 250


翌日の都内観光”

電車利用にて①築地市場見学、②徒歩にて都内観光「写真撮影」、③ドジョウ昼食後に④「浅草演芸ホール」での落語観賞でお開きになった。(世話役:溝口清司君)
一方、落語観賞しないグループは④’「浅草・お台場クルーズ」だった?ようだ。

なお、二ツ木夫婦と面高春海(画伯)兄の三名はやや疲れたので、都内徒歩観光の途中でファーストフード店で休憩したため「写真撮影」には入っていない。

 ⑤1 2008:10:25 =53周年1  ⑤2 2008:10:25 =53周年2





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タグ : ラ・サール高校 4期生 古希 ラ・サール讃歌

ブログ取材旅行


 ブログ用の正確な資料を求めて
 福岡市、大分市そして長崎市に
 取材旅行に出向いた。



今回の”ブログ取材旅行”の目的の一つは、「昭和30年代の長崎でのジャズ」に関することについて僕が今まで記述した内容に不備はなかったか、書く予定にしているブログ内容に不十分なことがないのか、更には僕が忘れ去っていた意外なエピソードを思い出せないか、ということ等を確かめることである。

その二つ目は、今後、書く予定である”昭和41年度 文部省科学研究費助成金(海外学術調査)”により「アフリカタンザニア国」に約1年間{1966.4-1967.3(s41.4-s42.3)}ウイルス研究の為に滞在したことについて、より詳細なエピソード・データーを得ることにある。

神経質で中途半端が大嫌いな僕の性格所以のためでしょうか。
だいたい”自分史のブログ取材旅行”だなんて・・・聞いてあきれまっせ!?!


1)福岡市を訪れる

まず最初に福岡市に滞在した。その目的はジャズピアニストの三宅(主計博敏)君に会うことにあった。

三宅(主計)君とは長崎で約3ヶ月間一緒にプレイしたことがあるのみであるが、多くのジャズメン(jazzmen)とは異なり悪擦れは全くなく大好きな友達である。
当時の長崎での彼は若さ丸出しであり、テクニック・指の使い方は未熟であるが、その為もあるだろうかジャズフィーリングは最高のジャズピアニストであった。
僕が今まで経験したなかでそのリズムにドラムが引き摺り込まれるというか、非常に良くスイングしドライブする、最も楽しく演奏出来たピアニストだった。

博多ではヤマハミュージック九州福岡店のジャズピアノ講師をしており、夜間はホテル日航福岡の「ナイトクラブ:夜間飛行」で演奏していた。

 2010.07.17 20ホテル日航福岡 175 130  2010.07.17 22ホテル日航福岡 175 130
ホテル日航福岡:「ナイトクラブ:夜間飛行」での演奏風景


翌日は、彼が自宅で個人レッスンをしている部屋を訪問した。

 2010.07.18 11主計宅 174 130  2010.07.18 32主計宅 174 130
三宅君のマンション、個人レッスン場

 2010.07.18 40主計宅 174 130  2010.07.18 31主計宅 174 130

この時の三宅君との出会いについては、既にブログアップしている。

               

参照)満州三兄弟非常にノリが良いピアニストとの出会い


ブログ取材旅行としての主計君との出会いは、僕が完全に忘れ去っていたこと、僕が彼に長崎時代に貸したレコードが見付かったことが一大成果だった。
その他の成果は昭和30年代のジャズメン(jazzmen)の名前および安否を十数名チェック出来たことである。


2)大分市を訪れる

 2010.07.19 10大分へ 282 198
博多・大分間のグリーン車

大分市を訪れた最大の目的は三舟求真人先生に会うためである。
三舟先生とは二人一緒にアフリカへ旅立った間柄である。

その当時、二人とも個人旅行タイプでの海外旅行は初めてで、英会話は不十分、いろいろなエピソードをつくり凸凹コンビだったことは間違いない。その最大の立役者は二ツ木本人である。漫才で云うならば、僕が天才的な”ボケ”かな?

参照)満州三兄弟アフリカに行くことになってしまった!!
参照)満州三兄弟アフリカへの珍道中1 パスポートを忘れた
参照)満州三兄弟アフリカへの珍道中2 もう飛行機に乗らない
参照)満州三兄弟アフリカへの珍道中3 インドでコーラ飲む
参照)満州三兄弟「ムワンザ」到着直後、HeLa細胞のジャー爆発



タンザニア国・ムワンザ(町)で二名の同僚と合流した。そして常時一名が交代していた為、常駐していたのは僕と三舟先生のほか末永斂先生を合わせて三人だった。

僕ら三名は各々二台のカメラを持参していて、うち一台はプリント用、もう一台はポジフィルムスライド(写真)用であった。
プリントは時間がかかり高額につくので殆ど使用せず、僕らはポジフィルムを多用した。

僕は約300枚以上の写真を持っていたが、僕の目から見た被写体・風景であり偏りがある。写す人間が異なると被写体となる風景も異なってくる。

そこで、上述の様に1年間滞在したのは三名のみであり、アフリカのブログの成否は三舟先生のポジフィルムの内容に依存した。
(なお、末永先生は体調不良で休養中だった。)


 2010.07.19 25湯布院で三舟先生と 282 198

この間隔をあける 2010.07.19 22湯布院で三舟先生と 282 198
別府・湯布院に於いて色々なスライドを見ながら歓談する。



 2010.07.19 32湯布院で三舟先生 451 316
湯布院での歓談した玄関先にて・・・二人とも年取りました!

間を開 三舟求真人、浩一/赤道直下 451 316
約45年前、ケニア赤道直下にて・・・若かりし頃の二人です。

三舟先生が僕が持っていない多数のポジフィルムスライド写真を持っていたので、三舟先生の写真約200枚を借用してブログ26編を書くことが出来た。

三舟求真人先生有り難うございました。


3)長崎市を訪れる

昭和30年代に長崎市で活躍していたジャズメン(jazzmen)は100数十名位か?
僕はその中で少なくても50名くらいのジャズメンとは面識があったはずである。

”十二番館”での知り合いの大多数の行方がわからない。リュウイワオさん、若手有望株の川原弘君(Tp)も亡くなったとのこと。唯一の生存者として確認が取れたのは、コンボバンドの若手ドラマー:浜島すみあき君(鹿児島市在住)のみであった。

”銀馬車”メンバーの生存者は、ピアノの吉田民義君{広島市でミンゼン開店}、岩屋さとし君{長崎市のクラブで演奏}および前川清君(僕が辞めてから数年後に銀馬車に勤務)、そしてテナーサックスの船橋正徳君(愛称:マー坊){長崎市在住}であり、今回は船橋さんに大変世話になった。船橋さん有り難うございました。
 1959(s34).11.11平原達とマー坊175 123      2010.07.21 53船橋さん宅175 123
昭和36年の船橋さん(右端)         平成22年の船橋さん
                   1959舟橋さん(若い時) のコピー90 90                       2010舟橋さん(高齢) のコピー90 90

昭和30年代に長崎市で活躍していたジャズメン(jazzmen)
                       (青字:生存者として確認)<敬称:略>

ドラマー
  ・二ツ木浩一(フロリダ、銀馬車、十二番館)   ・浜島すみあき(十二番館) 
  ・伊佐山(フロリダ)   ・エイちゃん 
ベース
  ・山本よしかず(十二番館)   ・小坂りょうぞう(十二番館)   
  ・小林(福岡:白い森)     ・亀野秀男(銀馬車)    ・平野(夜の蝶)
ピアノ
  ・岩屋さとし(オリエント、銀馬車、孔雀園)・・・現在『すみれ』
  ・吉田民義・・・現在(ミンゼン広島)
  ・主計博敏(十二番館)・・・現在:博多(ヤマハミュージック講師
  ・松田哲夫(十二番館)  ・松田伶子、  ・松田勝四・・・現在:piano lounge
  ・蒲田(ワールド)    ・櫛山
クラリネット
  ・小桐(平原)   ・井手
サックス
  ・船橋正徳(愛称:マー坊、銀馬車、ロイヤルボックス)
  ・川崎しんさぶろう(十二番館)   ・中山おさむ(十二番館)
  ・荻原(オランダ)    ・浜本(銀馬車)   ・小林(十二番館)
  ・川原弘(⬅ペット:十二番館)   ・ポンちゃん
トランペット
  ・平原勉(フロリダ➜銀馬車)   ・田中(銀馬車)     ・後藤すみお(十二番館)
  ・川原弘(➜サックス:十二番館) ・中村よしお(十二番館)  
  ・榎本(ワールド)   ・小島(ワールド)   ・古賀(オランダ)
トロンボーン
  ・松原(平原)   ・木村一成(十二番館)  ・原田やすし(十二番館)  
  ・りゅういわお(ギター⬅十二番館)   ・林田
ビブラホーン
  ・橋口まさき(十二番館)
アコーデオン
  ・徳本(オリエント)
ギター
  ・りゅういわお(➜トロンボーン:十二番館)
ヴォーカル
  ・中井昭(十二番館)   ・前川清(銀馬車)

寄合町(丸山町の隣)には、ジャズメンが約50名くらい住んでいた。この入口付近には僕らがチョコチョコと顔を出していた”近江屋楽器店”があり、その近くにジャズメン(jazzmen)のたまり場であった”みなと寿司”店があった。
なお、繁華街(銅座町)よりもかなり離れた坂の途中に”孔雀園”という大庭園が昭和40年後半ころからピアノバーとしてオープンしていた{p:岩屋}。キャバレーが廃れていくなかジャズメンも観客として多数集まり大繁盛だった。


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プロフィール

kagonmakouchan

Author:kagonmakouchan
昭和19年11月25日撮影。
左の健三が満1才の記念写真。
右の俊二は5才4ヶ月、
中央の僕は8才8ヶ月である

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