「新長崎市史」 に僕のことが掲載された


  新長崎市史 第四巻現代編の 「コラム」 に
  二ツ木 浩一が医学部生時代に、約5年間
  ジャズドラマーとして活躍したことが掲載された



僕の医学部生時代

僕は、昭和31年に入学し、昭和38年に卒業した。故に、医学部生の期間は6年+1年休学の7年間だった。
この1年間の休学は、博多のキャバレーに勤務した為に、実習の単位がとれなくなるので休学にした訳である。(実習には代返が効かない!)
その他の講義に対しては、代返・代返で対応してきた。
故に、僕は代返で卒業出来たといえる。
代返を常に行ってくれたNM君に感謝!感謝!。
参照)入院しながらの卒業試験

毎日の演奏時間は、年中無休の365日、1日3時間(45分間ステージを4回)。

演奏内容は、音楽の全てのジャンル。
但し、コンボバンドではジャズ演奏が主体であった。
一方、ビッグバンドでは、ジャズは1st stage のみ行うことが出来た。他は客が踊ることが出来るような曲が主体であった。

卒業前のほぼ1年間のビッグバンド時代では、大型の外人ショウ(1日2回)などの昼間のリハーサルは、コンボバンドのドラマーに変わってもらっていた。
 これは、卒業試験が迫っていることもあり、少なくとも午後の授業には出席した為である。
そして、ショウの本番の最初のステージは演奏して貰って、それを見て 2回目からのショウに対しては僕がドラム演奏した。

大型の外人ショウの時、ショウが中止してしまったことがあったっけ。
参照)外人ショウを途中で中止させた!


新長崎市史の発刊

長崎市では大正12年から昭和13年にかけて刊行された「長崎市史」
昭和14年刊行の「長崎市制50年史」
昭和31年~34年刊行の「長崎市制65年史」と3種類の市史、
そして、昭和56年に「長崎市史年表」
平成元年に「市制百年長崎年表」と2種類の年表を刊行しています。
 しかし、時の流れに沿って体系的に記述された市史類はなく、新しい通史の刊行は長年の懸案事項となっていました。

また、合併等により市域が大幅に拡大していることなどから、
市制施行120周年を迎えるにあたり、 「新長崎市史」を編さんすることになったようです。

参照)長崎市「新長崎市史」について

平成25年から【新長崎市史】が発刊され、
 1)新長崎市史 第一巻自然編、先史・古代編、中世編
 2)新長崎市史 第二巻近世編
 平成25年5月31日に、3)新長崎市史 第四巻現代編
 そして、4)新長崎市史 第三巻近代編 が発刊された。




新長崎市史 第四巻 現代編に、僕のジャズドラマー時代のことがコラムとして掲載された

[新長崎市史] 336頁 コラム「二ツ木」
新長崎市史 第四巻 現代編 336頁、コラム2-10 「3大キャバレーのドラマーを勤めた医学生」 をコピー転載



[新長崎市史] ブックカバー 1510-2134 [新長崎市史] 本の表紙 3 151-204
新長崎市史 第四巻 現代編 のブックカバーと本の表紙

さて、どうして僕のことが「新長崎市史」に掲載されたのだろうか。
第2章 高度成長の光と陰 の項目の中に掲載されている。

高度成長ー> キャバレーの台頭ー> ジャズ、ジャズマンの台頭
ー> これに乗っかった医学部生ー> しかし、ジャズに のめり込んだ だけでなく
ー> その後卒業してからは、必死に医学を勉強・研究して、
埼玉県立がんセンターで業績を上げた、からなのか?



僕の名前は、僕の没後、ほぼ永久に長崎市の歴史上の人物 ? ? ?、 となるのか、
新長崎市史 に載ったこと、どのように考えられるのか?

このブログを見た方々の忌憚ない意見、コメントをお願いしたい・・・




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タグ : 長崎大学 医学部生 ジャズドラマー 新長崎市史

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最新ブログ(更新したもの) 2015.1.12
245)長崎大学スイングボート "定期演奏会" =>第三部 2015.1.12
246)「新長崎市史」 に僕のことが掲載された
2015.1.31








第一部 満州からの引揚げ(孤児、満州三兄弟)

01)満州からの引揚げ
02)上海での優雅な生活 - 幼少時から小学校低学年
03)上海での優雅な生活 - 新公園の思い出
04)上海での優雅な生活 - 狄思威路アパート
05)感激の瞬間、アパートの部屋発見
06)貧困な中国社会、その後の発展
07)「人民元」と「兌換元」
08)僕が経験した上海の現実
09)日本海軍特別陸戦隊
10)小学生の僕が美味しいと思った食べ物
11)上海から、満州・奉天へ疎開
12)ぼた山に人骨ギッシリ
13)[ぼた山に人骨ギッシリ] の考案 - アメリカおよび日本の狂気 == 外国から約300通のコメントあり、非公開とした
14)終戦、そして西本願寺に逃げ込む
15)ソ連軍、八路軍、そして国府軍の駐留
16)母ちゃんが死んじゃった
17)シラミと過ごした8ヶ月間
18)誰か食べさせてくれた人がいたか
19)盗みカッパライで食べた孤児の生活
20)優しかった満人の露天商(ポップコーン、煎餅)
21)満人の「人さらい」はいない
22)人殺し方法を夢見た日々
23)まる裸・フリチンで市内を縄跳び、捕まった
24)戦後の学校教育、冬の「三寒四温」
25)虫食いだらけのビスケット
26)引揚げ途中、10円貰ってオニギリ1個
27)引揚げ途中での悔しさ
28)引揚げ乗船前の行軍中のイライラ
29)引揚げ行軍中の生涯忘れえぬ大感激
30)人間魚雷発射軍艦(?)でコロ島から博多港へ
31)下船延期、博多の検疫病院に健三が入院
32)無一文引揚者に対する金銭援助・給付金
33)帰郷後、僕らを探してくれた人
34)奉天(瀋陽)を訪れる
35)メッセージになる僕らの体験
36)【付録】貧困な中国社会、その後の発展
37)【付録】アメリカおよび日本の狂気【本/社会】
 == 外国から約700通を超えるコメントあり、非公開とした
38)「自分史を書くに至った理由」
39)抜けた真ん中、帰ってきた3番目



第二部 小・中・高校生時代(帰国後)

40)感心感心と云われて戸惑う、兄弟三人の引揚げ
41)全く分からない鹿児島弁
42)鹿児島の女性差別
43)小学生生の決闘、喧嘩の順番
44)雪の中を裸足で登校、小学生の時
45)川泳ぎ、大雨後の増水時に流される
46)川釣りを楽しむ
47)銀しゃりをたらふく食べた食べた
48)カイコさなぎの味噌汁、食べさせられた
49)ニッキの木の根をかじった
50)父の生前遺言「親兄弟でも保証人になるな」
51)小学生の僕が営業した貸本屋
52)金回りが良いのでチビのガキ大将になった
53)僕はレンタルビデオ店の先駆者だ
54)小学生の時の遊び(1)夢中になった遊び
55)小学生の時の遊び(2)特に熱中した遊び
56)父の再婚、健三を養子に出す
57)父への反抗、継母いじめ
58)健三「生みの親より育ての親」
59)真空管ラジオの制作、小学5年生
60)僕は勉強できると判明、鹿児島市内の中学に転校
61)僕は家を出て、長男としての任務は俊二へ
62)親に内緒でラ・サール高校を受験
63)開校当時のラ・サール高校の環境
64)ラ・サール高校でのクラブ活動
65)タイプライターで肖像画を描く
66)ラ・サール学園のハーモニカ部
67)ハーモニカ独奏について
68)分散和音奏法、ハーモニカ独奏
69)ラサール高校寮の環境
70)寮生の食事、娯楽、勉強環境
71)ラ・サールでの猛勉強の経験
72)工学部志望、このため浪人を希望
73)念願の予備校生活
74)4ヶ月間で浪人生活挫折
75)桜島の爆発、昭和30年
76)本に収まるポータブルラジオの制作
77)肺結核に対する恐怖心



第三部 大学・医学部時代(ジャズドラマー)

78)トランプで決めた医学部への入学
81)医学部・教養時代の生活
82)いいアルバイトと、キャバレーを紹介された
83)「水酌んでこい」「タバコ買ってこい」
84)ロカビリーを聞きに東京に行く
85)ミュージシャンの生活環境
86)ジャズの歴史
87)デキシーランドバンドに紹介された
88)平原勉のデキシーランドバンドの経験
89)ドラマーとしての評価を得た!
90)博多のキャバレーでの経験
91)父「それも良かろう今迄通り金送る」
92)長崎の「銀馬車」にドラマーとして勤務
93)ジャズ喫茶に出演
94)「重いリズム」「軽いリズム」
95)帰省中に、布団一式等が入質されていた
96)僕が好きだったジャズプレイヤー
97)非常にノリが良いピアニストとの出会い
98)バンドマスターの経験
99)僕が持っていたジャズレコード
100)フルバンドをコンボスタイルでドラミング!
101)ジャズバンドの構成
102)"アドリブ" と "フェイク"
103)ジャズの分類、三つのジャズスタイル
104)念願かなってビッグバンドのドラマーに
105)外人ショウを途中で中止させた!
106)ドラマーとテクニック
107)ビッグバンドの『ジャンゴ』
108)ジャズアルバイトから完全に手を引く 昭和37年

109)棘突起過敏症、そして肺結核に罹った
110)入院しながらの卒業試験
111)急性虫垂炎の手術、術後、緑膿菌の皮下膿瘍
112)3ヶ月遅れのインターン生活  昭和38年
113)インターン生、医師国家試験前に僻地に出張  昭和38年

114)学生ジャズバンド "スイングボート" 結成  昭和38年
191)新宿ピットインでジャズを楽しむ 55年頃 昭和55年 <= 第六部
192)タモリの店でジャムセッション、2時間 昭和55年 <= 第六部



第四部 大学院時代(アフリカ滞在 1年)

115)大学院でウイルス学を研究することになった
116)アデノウイルスの研究
117)アフリカに行くことになってしまった!!
118)アフリカへの珍道中1 パスポートを忘れた
119)アフリカへの珍道中2 もう飛行機に乗らない
120)アフリカへの珍道中3 インドでコーラ飲む
121)ケニア:ナクールの観光
122)「ムワンザ」到着直後、HeLa細胞のジャー爆発
123)#1 タンザニア「ムワンザ」での日常生活
124)#2 タンザニア「ムワンザ」での日常生活
125)東アフリカに於けるウイルスの研究(1)
126)東アフリカに於けるウイルスの研究(2)
127)ムアンザの夜の顔
128)軍隊内のダンスパーティーで踊り明かす
129)ビクトリア湖畔でくつろぐ
130)ウガンダのウイルス研究所を訪れる
131)タンザニアの道路、交通事情
132)無免許、酔っ払い運転
133)Williamson ダイヤモンド鉱山
134)セレンゲティ動物園へ
135)エピソードあれこれ、タンザニア
136)『マライカ』というタンザニアの歌曲
137)アフリカの土産物
138)銀行を摂取された! 至急帰国になった
139)イミグレーション:ビザを1ヶ月延長
140)タンザニアとおさらば
141)ケニアを観光して、アフリカを離れる
142)帰国した! = バンコック、香港を経由 =
143)ポレポレのタンザニア、コセコセの日本
144)世界一長い英語論文を書いた



第五部 医師として(長崎時代)

145)呼吸器を辞めて消化器専門になることにした
146)ゴルフは絶対にしない!
147)歌舞伎町 1夜で15万円!、昭和44年
148)苦しくない胃内視鏡検査
149)胃X線検査法に凝りに凝る
150) EBウイルス感染症か:高熱とリンパ節腫脹
151)昭和30年代の長崎の経済状態【追記】 => 89)の後半へ転記
152)東望病院での診療業務、家庭サービス
153)父が脳梗塞で倒れる
154)白壁彦夫先生に僕の強烈な印象を与えた
155)佐世保市立総合病院に勤務した
156)日中は診療に明暮れ、夜は "軍隊バー" へ
157)長崎の「早期胃癌研究会」
159)長崎大学病院の文部教官になった
160)「病理組織型別にみた胃癌の鑑別診断」
161)多くなった癌の主題:地方会のシンポジウム
162)巨大な両側性の珊瑚状結石が発見された
163)満州孤児の時の、弟・俊二のワダカマリ
164)紅葉見物「枯葉を見て何が楽しい」
165)胃穿刺吸引細胞診、1973年
166)文部省科学研究費 一般D、個人研究費
167)内定していた学会長を奪い取ってしまう
168)内視鏡学会長が分離独立した理由
169)実行委員として合同秋季大会(長崎) の準備
170)合同秋季大会(長崎)、学会当日の運営
171)田代美代子とデュエットした
172)「カキフライを食べよう」、柿フライ?
173)グルメの僕、特に魚介類が好物
174)死ぬ思いでフグを食べた
176)ライフワークの臨床的研究を論文に出来ず
177)長崎大学医学部の学生運動、昭和50年前後
178)僕は「真性多血症の疑い」ありと
179)息子が「ラ・サールに入学したい」と
180)「君マージャンするかね」と、村上教授
181)長崎大学を辞めて、埼玉に行くことに



第六部 埼玉県立がんセンター

182)採血しない看護婦、埼玉県立がんセンター
183)埼玉まで鳴り響いていた僕のドラマー
184)急性膵炎の為3ヶ月で12Kg体重減少
185)全身麻酔で声帯ポリープを切除
187)埼玉県立がんセンターでの勤務状態
188)灰色の巨塔1、開設時の埼玉県立がんセンター
189)灰色の巨塔2、開設時の埼玉県立がんセンター
190)アジア太平洋内視鏡学会で発表、s55年
191)新宿ピットインでジャズを楽しむ 55年頃 =>=>第三部
192)タモリの店でジャムセッション、2時間 =>=>第三部
193)厚生省から医療援助で沖縄に派遣された
194)抗癌剤のみで完全に治癒した進行胃癌症例
195)進行癌に対するレーザ治療
196)週刊誌グラビア特集の一面に掲載された
197)「ガン告知」がない時代が良かったか1
198)「ガン告知」がない時代が良かったか 2
199)「がん告知」の功罪
200)中心静脈栄養法カテ挿入ミスで大事故
201)「中心静脈栄養法」の進歩、発展
202)「中心静脈栄養法」の発展、CVポート
203)手持金10万円で49坪の一軒家を建てた
204)灰色の巨塔3、昭和50年前後の大学の医局
206)ミュンヘンの国際学会でレーザ治療成績発表
207)「先生は共産党員ですか」と
208)消化器内視鏡学会 埼玉部会の設立
209)厚生省がん研究助成金
212)癌性腹膜炎に有効な "MFP 療法"
213)第8回消化器レーザー内視鏡研究会を主催
214)僕とアツレキを生じていた? 父亡くなる
216)当センター大腸疾患の専門家、若くして急死
217)第8回日本消化器内視鏡学会関東セミナー主催
218)母の「50回忌」
219)業績1:病理組織型別にみた胃癌の鑑別診断
220)業績2:癌に対する化学療法
221)業績3:進行がんに対するレーザー治療
223)業績4:バルーンによるレーザー温熱療法
224)業績5:免疫、X線、症例報告
225)業績6:ウイルス学、その他の研究
226)埼玉県立がんセンター退職 



第七部 雑文、その他

79)「ブーマージャン」
80)「カラ打ちパチンコ」
158)【考察】医者と製薬業界との関係
175)アルコール飲料は放射線防護剤になるか?
186)トランプ占いによる医学部入学、後日談
205)「川身変更の由来」残念至極の先祖の古文書
210)医学的 "差別用語"
211)医学用語・医学略語
215)レセプト病名、保険病名、カルテ病名
222)ルーレット必勝法(確率からの検討)
227)完全な禁煙に成功、55才 
230)風邪に抗生物質は効かない



第八部 がんセンター退職後
228)"雇われ院長" として勤務1
229)"雇われ院長" として勤務2
231) リハビリ専門病院に勤務  <= 2014.4.15更新
234)お母さん(継母)死亡、2004年 <= 2014.5.11更新






第九部 国際学会、海外旅行
232)CPT-11 治験発表、ASCO 1993  <= 2014.4.27更新
233)"ディズニーワールド" 観光、1993年 <= 2014.4.30更新


最新ブログ(更新したもの) 2015.1.31

235)長崎大学スイングボート "定期演奏会" =>第三部 2015.1.12
236)「新長崎市史」 に僕のことが掲載された 2015.1.31

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長崎大学スイングボート "定期演奏会"


 長崎大学軽音楽部、  
  スイングボートジャズオーケストラ
   "定期演奏会" 開催  



定期演奏会の開催


演奏会(定期演奏会)を行いたいとの要望があった。
僕の、口で歌いながらの演奏方法の指導は限界だと感じ、長崎(九州)で編曲に最も定評ある "りゅう いわお" さん (演奏は G, Tb, p)に指導に来て貰った

参照)学生ジャズバンド "スイングボート" 結成
  参照)ジャズ喫茶に出演
  参照)念願かなってビッグバンドのドラマーに
  参照)ビッグバンドの「ジャンゴ」


学生バンドだからとのことで、ギャラなしでボランティアとして、約2〜3ヶ月間 快くほぼ毎日の午後の約2時間、 "りゅういわお" さんは Tb を持って指導に来てくれた。
僕が医学部生の時に約5年間、ジャズドラマーとしてプロ並みの収入を得ていた頃(プロ?〜 セミプロ?)、僕は毎日のように練習に明け暮れていた。
だから、僕は非常に熱心であることを評価してくれていたのだろう。
故に、学生に対するジャズ演奏の指導について、僕の頼みを聞いてくれたのでは。
なお、 "りゅういわお" さんは、編曲もジャズプレイ (ギター、トロンボーン) も超一流であったが、「人間的にも尊敬出来る人であった」。


その数ヶ月後には「演奏会を行っても、多分大丈夫であろう」とのレベルに達した。

「第1回演奏会」



1964年10月25日に(僕が大学院1年生の時)、長崎市公開堂で、
「第1回演奏会」「MUSIC FESTIVAL」と銘打って行ったようだ。

定期演奏会にする為には、「第1回が肝心だ」 と演奏会の観客の人集めには、全員が必死になった。
観客動員の為に、"活水短大" の ハワイアンバンド を引き入れての "演奏会" にした。この為に、「MUSIC FESTIVAL」と銘打って行ったと思われる。

開演の時、幕の隙間から会場を見たら、入っているわ、入っているわ、約1800名の座席は超満員で、通路の階段迄ギッシリと観客が入っていた。
2000名以上の入場者だとのこと。



SB photo 8C 360-214
 活水短大のハワイアンバンド   岡本純忠兄のアルバムから転載


そして、第1回の演奏会なので、下手なスイングジャズ演奏は今後に響くと思ったので、当時、流行していたラテン音楽(ルンバ、マンボなど)を随所に挿入しながらの(特に第1ステージ)演奏会であった。

SB photo 6B 400-267
 コンガを演奏している僕 岡本純忠兄のアルバムから転載


僕は、その日のコンボバンドで、約10分間以上?のドラムブギ を演奏した。

1964.10.25 スイングボート:クインテット  180-118  1964.10.25 スイングボート ドラムソロ2 180-118
コンボ(クインテット),,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,ドラムソロ


演奏会のプログラムは、1)ビッグバンド(指揮:二ッ木) 2)ハワイアンバンド "活水短大"   3)コンボバンド(ドラム:二ッ木)    4)ビッグバンド であった。

「第1回演奏会」は大成功だった。

しかし、しかし、会場の係員が僕らの演奏の録音を忘れてしまっていた。

故に、翌日の日曜日に、無人の公会堂に於いて、録音の為の再演奏を行ったが、この時に録音された第1回演奏会の再演奏(録音)は、気が抜けたものになっていたと思われる。


僕はその再演奏時のデジタルに変換された CD を、最近、岡本純忠君(初代メンバー)から貰った。
しかし、僕のドラムソロは録音されていない。
もし、僕のドラムソロの部分の録音テープを持っている人がいたら、是非とも是非とも譲って貰いたいと切願している。


SB photo 3C 400-284
 第1回(定期)演奏会後に、公会堂前で活水短大の人達との集合写真

1964.10.25 S.B. コンパ 400-306
 第1回演奏後の懇親会


「第4回定期演奏会」



3年後の1967年10月、僕が大学院4年生の時に「第4回定期演奏会」が行われた。
僕が再び客員として演奏することになった。
久しぶりのドラムソロであるので、短期間で1日2~3時間、ドラミングの基礎からの練習が必要であった。

この為に筋肉の凝り・張りが発生したので、演奏会当日は、全身にエアーサロンパスを吹きかけての演奏になった。
エアーサロンパスによる吐き気に悩まされながら、演奏会の最後に、"りゅういわお" 編曲の曲をフルバンドで演奏した。

その日の最後に、"ドラムブギー" 12 分間(うち、ドラムソロは7分間)行い、引き続いて "シングシングシング" を5分30秒間行いその日の演奏を終了させた。

SB photo 4C 400-267

SB photo 3C 400-267
  岡本純忠兄のアルバムから転載

この時も超満員であった。
だから、第1回演奏会の時と同様に、湿気のために「スネアドラム」以外のドラム、「タムタム」「トムトム」あるいは「タム」のドラムヘッドの皮(牛皮)は、ボテボテになってしまい、リズムの切れが悪いドラムソロになっていた。
当時は合成皮革のようなものは存在しなかった。
 観客が超満員になると、 "湿気" の為にドラムの皮の締まりが弛み、特に「タムタム」がボテボテになってしまった第1回演奏会の時の経験から「演奏初めに全てのドラムを "カンカン" になるまで強く締め付けるべきである」との "教訓" を忘れてしまっていた!
(スネアドラムは常にカンカンに締め付けた状態で演奏していたので問題なかった)



「第10回定期演奏会」



1973年10月(11月?)に「第10回定期演奏会」が行われた。
第10回なので、記念演奏会として色々なことが企画された。

その一つは、最終ステージである。
この時の最終ステージは、右に現役バンド、左にOB(OG) バンドの二組のバンドを組んで、交互に演奏する形式だった。

このOBバンドには、古いメンバーとしては初代の岡本純忠兄(Sax)と、スイングボートの創設者・指導者である僕(二ツ木)とが参加した。
僕はさだめし”0代” ということになりますか。

しかしながら、しかしながら、
僕は、この記念すべき第10回定期演奏会に、「出演した」という記憶が全くなかった、全く忘れ去っていた...!

僕が出演していたことが分かったのは、最近、その時のカセットテープが見いだされたからである。

僕は、この演奏会の時に、15分間のドラムブギー(うち、ドラムソロは 11分30秒)を演奏していた
ドラムソロの出来映えは問題ない。

しかし、そのテーマ曲の部分の出来具合(テンポ)が非常に悪かった。

テンポを第4回の演奏会の時よりも、約半分のゆっくりしたものにするつもりだった。

しかしながら、イントロのドラムソロ4小節を、いつものように早いテンポで入ってしまった。

そこで、 「しまった!」 と、ドラムを叩きながら慌てた、慌てた。


このテンポでは、第4回の時のドラムソロとほぼ同じものになってしまう・・・
そこで、「イントロおよびテーマ曲のテンポを 除除 に ユックリ と叩いていった」
 
普通では全く考えられないことである。

・・・>
 ということを、カセットテープを聞いて思い出した。




ドラマーとしては、最低のことである!

故に、ドラムソロのイントロと、テーマ曲アンサンブルのテンポがユラユラして、ドラマーとしては全く恥ずかしいものになってしまった。

(ドラムソロ11分30秒の出来映えは、僕としてはまあまあ。)

恥ずかしい! 恥ずかしい!
・ ・ ・ ”意識的に このことを忘れてしまいたい”、としたのだろうか?

 でも、 全く不可思議なことである ・ ・ ・ ?





最近のジャズスタイル:

関東ではジャズ喫茶のような生ジャズを聞けるスポットは数多く存在する。
しかし、純粋の古いジャズ、スイング、ビバップ、モダンジャズ 等を中心に演奏するバンドはマレで、その大多数は、フュージョン、特に、ロックフュージョンが主体のようだ。
    
故に、長崎大学の「スイングボート」と名付けられたジャズバンドは、長崎大学から消失していた? かも知れない、と思っていた。
もし、存在していたとしても、ロックフュージョンのようなバンドになってしまっているのかな、と思っていた。

名簿が作られていない、この為か、他県に在住しているものには、最近の情報が全くなかったから。
、というよりも、僕が、医学診療、研究にのめり込んでいた為に、スイングボートの情報を積極的に知ろうとしなかった為である、といえる。 反省!


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お母さん(継母)死亡、2004年


 平成16年(2004年)3月に
 継母が満83才で亡くなった



継母、八重が 2004年3月21日に亡くなった

母は鹿児島市内のグループホームにて、体調不良になり亡くなった。
親類一族が集まりにくいことを考慮して、
通夜は2日後の3月23日葬儀は翌24日に行った。
長男であるから、喪主は僕が勤めた。

二ツ木家の菩提寺は薩摩郡宮之城町にあるため、
通夜・葬儀は、鹿児島市の自宅近くの葬祭場で行った。

子供である、僕ら三兄弟(埼玉、鹿児島、神戸)、そして妹(横浜)のほか、
母の兄(沖縄)と弟(沖縄)そして妹(東京)、その他の親族が多数集まった。

なお、鹿児島には寺院の外観・形態を呈する "お寺" は殆ど存在しない。

これは、薩摩藩での 「廃仏毀釈」 がすさまじく、庶民の寺院ばかりでなく、島津氏の菩提寺までもことごとく破壊された為である。

しかし、仏教に対する信仰心は日本一であり、お花の消費は日本一である。


 (参照)鹿児島に寺院がほとんどないわけ - Samurai World - FC2
 (参照)菩提寺とは:浄土宗
 (参照)第18回日本で一番切り花を購入するのはどの都道府県?【日本 ...



母の初七日は3月27日に行い、そして、
4月17日に四七日を、父の「十七回忌」と共に行った。

5月8日に、鹿児島の寺で母の「四十九日」を行い、
宮之城町の二ツ木家の菩提寺で法要して「納骨」した。

「初盆」を8月13日に行った。
「一周忌」を平成17年に、「三回忌」を平成18年に行った。
そして、
平成22年3月6日に母の「七回忌」を父の「二十三回忌」と一緒に行った。

 なお、父が亡くなったのも満83才であり、夫婦そろって同じ年齢で、仲が良かったのかな?


浄土真宗の法名と院号

浄土真宗では、他宗派とは異なり、いわゆる "戒名" は「法名」と呼称し、
浄土真宗本願寺派での「法名」は、釋の後に二文字のみで 「釋##」となる。



なお、法名の前に「院号」を付ける場合もある。
「院号」は本来、寺を建立する位の貢献をした者に送られる称号であった。

現在は、本山や手次寺の護持に貢献した者へ送られる名である。
現在、本願寺では、宗門の護特発展に功績のあった人に対して、院号が与えられることになっている。

西本願寺では、20万円以上の懇志をした人に対し、金額に応じてお礼の記念品を数種用意している、そのひとつが「院号」とのこと。
   
しかし、一切衆生は浄土では平等であるという教えから、院号を用いることに対して反対する意見が一部にある。

即ち、「貧富や家柄」と言った「差別に利用されるおそれ」があるので、「浄土真宗はすべて二字法名に統一」した方が良いのではないかと思われる。

院号の要否は、「趣味の範疇」で、「院号は不要」との思想です。

 (参照)法名 (浄土真宗) - Wikipedia
 (参照)浄土真宗の法名と院号について - OCN


通夜でのことである。 僕は、フッと思いついた
「確か父には院号を付けたのではなかろうか」

「もし父に院号を付けていたら、母にも付けなければ不公平になる」
そこで、僕の長男に、父の自宅の仏壇の位牌を調べてきて貰ったところ、
「院号」が付いていたとのこと。

 浄土真宗では「位牌」よりも「過去帳」を大切にする。
 (参照)浄土真宗のしきたり - nifty

葬祭場の人と相談した。
「院号を付けるのだったら20万円以上の上乗せが必要だ」と。
25万円出すことにして、母の法名に「院号」 を付けてもらった。


僕は現在、関東に居住している。
関東での浄土真宗以外の宗派では、"院号"、"道号"、"戒名"、"位号" など、九文字以上の戒名
を付けることが多く、僕は少なくても "院号" は付けるべきである、と思っていた。
そこで、父が亡くなった時、昭和63年の時には、何の疑問もなしに当然のこととして、父の法名には「院号」を付けていたのだった!


二ツ木家での母(継母)の人生(半生)

母(継母)は、二ツ木家に嫁いで来た時は、姑(僕のおばあちゃん)がいた。
その煩い姑の後について畑仕事に毎日出ていた。

そして、非常に こうるさい 小学5年生の僕がいた。
(1) 母親としての態度がしっかりしていない
・洗濯物を収納するタンスの引出しに、きちんと僕らの下着が入っていない!
・「僕ら(僕と弟)よりも、自分が産んだ子供(妹)を大切にせよ!」

、、など。
 -> しかし、継母も僕らに劣らず頑固(強情っぱり)だった!!!

(参照)父への反抗、継母いじめ( 満州から孤児として引揚げた三兄弟 )

(2) 中学2年生の時、
「母と言い争ってばかりいる僕が居るから、我が家・父の家庭は暗いのだ」
-->「だから、僕は父の家庭で生活しない方が良い」
 、と結論して、僕は父母と一緒に生活しないことにした。

--> 琉球からの大学留学生の寮に潜り込んだ
-->その後は、ラ・サール高校寮 -->長崎大学
そして、長男としての任務は次男・俊二に任せた。


(参照)僕は家を出て、長男としての任務は俊二へ(満州から孤児として引揚げた三兄弟)

僕は、小学5年生、6年生、および、中学2年生の3年間しか、一緒に生活していない。
中学1年生の時は、父の転勤にて父母と妹は指宿に住んでいた。


(3) 僕は親に内緒で「私立ラ・サール高等学校」に入ると決めて実行した。
 このことで、父は「お金がないので、父がいる鹿屋市の高等学校に入学すること」、とカンカンに怒っていた。
・・・母は僕の城西中学校まで父の意向を伝えに来たが、僕は無視した。

(参照)親に内緒でラ・サール高校を受験(満州から孤児として引揚げた三兄弟)

(4) 俊二が母に対して「大いにモンクがある」と、僕ら兄弟姉妹その連れ合いを呼び寄せて、母を囲んで母の悪口・問題点をクドクドと云った。
・・・その後、皆がシーンとしていた、、、
「俊ちゃん、お茶を飲むね?」、と、アッケラカン(アッケンカラン) に。

、、、母は、馬耳東風、馬の耳に念仏!

(5) 母は、保健所での栄養士だった。戦後の食料不足だったが、
「兎に角、栄養栄養! カルシウムとしてだしじゃこ【出し雑魚】、青汁・青汁、、、」
〜〜僕は【青汁】だけは、ゴメンで避けていたが、

この為に、栄養失調で引揚げて来た僕ら三兄弟が、ある程度長生き出来ている、と思われる。

自分のことよりも、
父、そして僕らの面倒をみることが、生き甲斐だった、と思われる。

僕ら兄弟は頑固だが、母の頑固さは僕らは足元にも及ばない、
頑固一徹だったので、何とかなったのではないだろうか?

しかし、非常に大変な "半生" だったと思う。  感謝!  感謝!




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"ディズニーワールド" 観光、1993年


 1993年(平成5年)5月18日に、
 ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート
 で 午後および夜間に、遊興した。




1993年(平成5年)5月16〜18日にオーランドで、米国癌治療学会議(ASCO)が行われた。
この時の学会の余暇、5月18日に "ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート" で楽しんだ。



5月18日に "ディズニーワールド" に遊びに行った

"ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート" は、非常に広くて、パスポートは1週間券も存在した。
1ヶ月パスポート、1年パスポート も存在した、と記憶する。

現在の東京ディズニーリゾートには、1年間利用可能な "年間パスポート" があるようだ。

欧米人の休暇の過ごし方は、長期休暇が取れない日本人とは比べようも無いな、と思った。


"ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート" は非常に広くて、
   1。マジックキングダム・パーク
   2。ディズニー・アニマルキングダム
   3。エップコット
   4。ディズニー・ハリウッド・スタジオ
   5。ダウンタウン・ディズニー
   6。ディズニー・ボードウォーク
   7。その他

  ・・・の非常に広いテーマパークに分かれているとのこと。
このことは、当時は全く分からず、帰国後に判明しました。



入場してから、非常に広くてどこに行ったら良いのか、サッパリ解らなかったが、人が多い方向に歩いた。
人が多いと云っても、日本のテーマパークの約 1/10 以下位の人出だった。
テーマパークが多くて広すぎる為だろう。
僕がウロウロした場所は、ディズニーハリウッド・スタジオ 付近だった?



僕が入場した "ディズニーワールド" の 貧弱な 入り口

img910 ディズニーW-1入口 282-198

,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,非常に広いテーマパーク
,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,img911 ディズニーW-2 282-198

img913 ディズニーW-3 282-198

img914 ディズニーW-4 198-282     img916 ディズニーW-5 198-282


"ディズニー・ハリウッド・スタジオ" 付近、と思われる

img919 ディズニーW-6 282-198

,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,img921 ディズニーW-7 198-282

img923 ディズニーW-8 282-198

,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,img924 ディズニーW-9 282-198

「ユニバーサル・スタジオ・ハリウッド」 の約10倍位の広さかな

img925 ディズニーW-10 282-198



5月18日の夕方から、学会会長招宴がディズニーワールド内のレストランで行われた

人ごみが少なくなった夕方の "ディズニーワールド"
img930 ディズニーW招宴-1

会長招宴の場所は "ディズニー・ハリウッド・スタジオ" 付近か
img931 ディズニーW招宴-2 450-152


夕食をとっていた時に、
いろいろなキャラクターが10数組入って来て盛り上がった。
写真を撮るチャンスがあったのは、下記の5組のみだった!

img932 ディズニーW招宴-3 282-198

,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,img933 ディズニーW招宴-4 282-198

img934 ディズニーW招宴-5 282-198

,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,img936 ディズニーW招宴-6 282-290

img937 ディズニーW招宴-7 282-290

マリリンモンローのそっくりさん・ ウヒー!

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昭和19年11月25日撮影。
左の健三が満1才の記念写真。
右の俊二は5才4ヶ月、
中央の僕は8才8ヶ月である

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