2.ハーモニカ部 【卒業50周年記念誌】


 鹿児島ラ・サール 四期生
 【50周年記念誌】 2005
      No.2 ハーモニカ部




卒業五十周年記念誌、四期生 2005 282-198 2. ラ・サール学園のハーモニカ部 1 282-198 2. ラ・サール学園のハーモニカ部 2 282-198
2. ラ・サール学園のハーモニカ部 3 282-198 2. ラ・サール学園のハーモニカ部 4 282-198 2. ラ・サール学園のハーモニカ部 5 282-198


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ラ・サール学園のハーモニカ部

,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,二ツ木浩一

はじめに

 ハーモニカは他の楽器、例えばバイオリン、トランペット、サキソフォン、あるいはドラムなどと一緒に合奏することは少ない。このような楽器を奏でる人たちからは現在でも、ハーモニカは個人で吹いて楽しむ安価な楽器、
極論的には楽器の一種ではあるが玩具に近いものと思われているようです

ハーモニカを楽器として扱って、懸命に演奏しているものにとっては残念なことです。
 中高年層においては、ハーモニカを手にして吹いたことがある人は少なくないでしょう。しかし、最近の若い人でハーモニカを手にする人、演奏する人はめっきり減ってきて、ギターなどの楽器が多いようです。この理由の一つは、若者の好みとする音楽のジャンルがロックなどに替わってきているためでもあると思われます。
 そこで、まず最初に、ハーモニカ部のことを語るに当って、ハーモニカとはどのような楽器であるのかを簡潔に説明してみようと思います。


ハーモニカの種類と演奏法

 ハーモニカはリード楽器の一種で、その構造により大きく
「単音ハーモニカ」「複音ハーモニカ」の二種類に分類できます。その他、
合奏の場合に主として用いられる特殊なハーモニカとしてホルンハーモニカコードハーモニカバスハーモニカ等が存在します。

 Ⅰ) 「単音ハーモニカ」
 代表的なものは「クロマチックハーモニカ」で、このハーモニカは本体の横にレバーがついており、そのレバーを押すことによって半音上の音を出すことが出来るので、一個のハーモニカで全ての曲を演奏することが出来ます。
欧米ではハーモニカといえば、この「クロマチックハーモニカ」を指すことが多いようです。
 二十年以上前に、ジャズ・ハーモニカ奏者としてトゥーツ・シールマンス
という人が活躍していたことを懐かしく思い出します。

 Ⅱ) 「複音ハーモニカ」
 日本で発達した世界に誇るハーモニカです。わずかにピッチの違うリードが上下二列に配置されており、その上下二列に並んでいる穴を同時に吹くことにより「ビブラート効果」が得られて、トレモロのついた重みのあるサウンドが出ます。
 一般的には、誰でもメロディを吹くことができ、少し上達したら舌を利用して「ジャッ、ジャッ」と和音をリズミックに入れて吹く「ベース奏法」によって、
より音楽的のものとして楽しめます。

 1922年頃、佐藤秀廊(1899 ~ 1990)により、まだ玩具扱いだった複音ハーモニカに対して「分散和音奏法」、その他「バイオリン奏法」、「マンドリン奏法」等の演奏技術が創案されました。これによって複音ハーモニカ演奏の芸術性が高められ、楽器としての地位が認知され発展してきています。
参照)分散和音奏法、ハーモニカ独奏(満州から孤児として引揚げた三兄弟)

 一般的に使われている複音ハーモニカはメジャー(長調)のハーモニカです。長調の音階は、ドレミファソラシドですが、息を吹いて音がでるのはドミソです。ハ長調(C)・ト長調(G)などです。
 しかしながら、日本の大多数の曲、特に懐メロの80%はマイナー(短調)の曲です。そこで、佐藤秀廊よって1931年にマイナー(m)ハーモニカが開発されました。このマイナー・ハーモニカはラシドレミファソラの音階
で、吹いて音がでるのはラドミです。
イ短調(Am)、ハ単調(Cm)等の12本が存在します。

 なお、半音を奏でる問題点の解決策としては、二本のハーモニカを持って演奏します。例えば、イ長調(A)のハーモニカで演奏する場合、Aのハーモニカを持ってその上方にA#のハーモニカを持ちます。

 このように、複音ハーモニカは小学生でも親しみをもって簡単に吹くことができますが、高度のテクニックが必要である奏法もあるので、その奥行きは非常に深いものになります。


鹿児島大学のハーモニカバンドと軽音楽

 ある時、小生が二年生の時だと思われますが、鹿児島大学のハーモニカバンド主催のダンスパーティーに呼ばれました。
そして、部員と一緒に吹いてみてくれとトップメロディーの楽譜を渡されました。楽譜をみて吹こうとしたが全くその楽譜を演奏することができずに大恥をかきました。
ハーモニカ独奏の第一人者と自負していたし、他人もそう思っていたはず(?)の二ツ木が合奏のための単純な楽譜を読むことさえできないと・・・。

 数年後に分かったことですが、クラシック・行進曲などの場合は譜面通りに演奏すれば良いのだが、軽音楽、特にジャズの場合は、譜面に書いてあるように演奏しては全く音楽にはならない。すなわち「譜面に書いてない特殊なリズム、アクセントの約束事」があることです。
それ故に、ジャズに堪能なものはクラシックも上手に演奏できるが、クラシックしか演奏したことがない人はクラシックのベテランであってもジャズを演奏することは全くできないということです。小生もジャズという音楽がどのような音楽であるかなどは全く知りませんでした。


ラ・サール学園でのハーモニカ独奏

 ハーモニカ独奏は、石井先生の「分散和音奏法」を用いた独奏を歓迎会などで聞いて、複音ハーモニカではこのような演奏ができるのかと、ビックリ仰天・感銘してハーモニカ独奏に夢中になった人が大多数です。

小生の場合も、ラ・サールでは石井先生の「分散和音奏法」に触発され、石井先生の指導のもとで「分散和音奏法」による演奏ができるようになりました。
そして、この奏法に夢中になり、暇があれば講堂(St. Joseph's Hall)で練習し、その代表である曲「荒城の月(変奏曲)」を中心に積極的に演奏していました。

 この「分散和音奏法」は特殊な奏法で、二人で演奏するようなことを一人で行う。すなわち、メロディーと分散和音を一緒に奏でる方法です。
口をいっぱい広げて、中央に舌を当て、舌の右側でメロディーを鳴らしながら、舌の幅を縮めたりして舌の左側で分散和音を鳴らす方法です。
 我々が三年生の時、二代目の校長としてブノワ・ブロンデン先生が着任されました。「分散和音奏法」に非常に興味を持ったのでしょうか、講堂(主に、小生のロッカーの近く)で顔を合わせる度に「荒城の月」の分散和音部分を「ラララ、ラララ、ラララ、」と口ずさんで、小生に向かってウインクされていたことを思い出します。
 ハーモニカ独奏のみを行い、ハーモニカバンドに入っていないものは、狭い意味ではハーモニカ部員ではないと言えるかも知れません。ところで、小生は、ハーモニカバンドが結成された直後頃にはハーモニカ独奏に夢中であり、ハーモニカバンドには入っていなかったのではないかと思われます。


ハーモニカバンドの結成

 ハーモニカバンドが石井先生により結成されたのは、我々が入学した昭和二十七年の春であり、四期生の入学と共に結成されたことになります。
そして、記念すべき初舞台はその年、昭和二十七年十月三十日に、講堂 (St. Joseph's Hall) において三十一名のメンバーで演奏されました。
 昭和二十九年三月に石井先生が病気療養のため、鹿児島ラ・サールを離れられた。ハーモニカバンドを結成して二年間で辞めることになった訳で、後ろ髪を引かれる思いであっただろうと思われます
そして、入れ替わるように我々が三年生になった昭和二十九年四月には、ブラザー・オーラス先生が着任されました。
 この時を期に、二ツ木がハーモニカ部長としてハーモニカバンドを率いることになりました。
 石井先生が結成されたハーモニカバンドは、予算の関係もあったと思われますが、ハーモニカ合奏の為の特殊なハーモニカ(低音のバスハーモニカ、和音chordハーモニカ、ソプラノ・アルトホルンハーモニカなど、特殊なもの)がやや不足気味であると小生は思いました。そこで、これらの特殊ハーモニカを買い増す為に、
新しくハーモニカ部の顧問となったブラザー・オーラス先生に頼んで、カナダから援助金を送ってもらい種々の前記ハーモニカを買い増し、楽器構成の点では名実ともに充実したハーモニカバンドになったと言えます。
 当時の日本は、まだまだ貧乏であったので、カナダのカソリック本部からハーモニカ部に対してかなり多額の援助金が貰えたのであろう、と思われます
 部長としての役目は練習する曲について、その殆どは石井先生が残されたものであったが、編曲し、練習の音頭をとり、そして演奏会で指揮することでした。小生は三年生の二学期末でハーモニカバンドから手を引きました。
その後は、五期生の寺本たかし君、そして東郷実保君が小生の後を継いだので、ハーモニカ部は消滅しないで済みました。
 エピソードに関して、5期生の寺本たかし君によれば、二ツ木が「オーラス!オーラス!」とブラザー・オーラスを一見こき使っていたようにも見え、ブラザーと友人のように付き合えるなんて羨ましかった・・・とのことです。
このことは、小生は先生・上司に対して敬意は払うが、媚びない。故に、ブラザー・オーラス先生に対して気兼ねせず心を開いて接していたように思われます。


四期生のハーモニカ部員

 我々四期生のメンバーは、宇都宗長、面高春海、中村 齋、上野二郎、平川正徳(故)、重永宏之(故)、二ツ木浩一の七名のみしか調べ得ることができなかった。
 この他にも数名いたはずである、いたのではないかと思われるが、これ以上は石井先生を含めて上記のメンバー全員が思い出せない。そして、上記七名以外のハーモニカ部員であったかも知れないと思われる十数名の同級生に問い合わせたが、これ以上の名前はでてこなかった。


ハーモニカ部の活動、演奏会

四期生が関与している主な演奏会は大体、後記のようです。
 1) 昭和二十七年十月三十日:講堂(St. Joseph's Hall)で初演奏(指揮:石井先生)
 2) 昭和二十八年十一月四日:私学法制定記念行事で中央公民館で合奏(指揮:石井先生)
 3) 昭和二十八年秋:クリスマス祭で演奏(指揮:石井先生)
 4) 昭和二十八年十二月:ラジオ南日本で放送のための録音(指揮:石井先生)
   この放送は昭和二十九年一月におこなわれた
 5) 昭和二十九年一月三十一日:市内高校交歓管楽会(指揮:石井先生)
  (三期生は退部、四・五期生のメンバーのみで)
 6) 昭和二十九年十月三十日:加治木に演奏旅行(指揮:二ツ木)
 7) 昭和二十九年十一月五日:講堂で演奏(指揮:二ツ木)
 
s27.10.30 ハーモニカバンド・初演奏.jpg(指揮:石井)  282-198


ハーモニカバンドのその後・消滅の時期

  我々四期生が卒業した後(昭和三十年度)は、五期生が中心となり活発に活動しています。そして、ハーモニカ部は五期生の卒業と共に消滅してしまったと思われていました。即ち、石井先生を知らない学生のみ(六期生以後:昭和二十九年四月以後に入学したラ・サーリアン)になった時にハーモニカ部は消滅してしまった、と・・・。事実、小生もそのように思っていましたし、故平川正徳君も「小松原二十三巻」に投稿している「ハーモニカバンドの思い出」の中に、「仙台ラ・サール・ホームでは、石井先生不在の時期も含めてずーと五十年余りもハーモニカバンドが活躍しているのに、わが鹿児島ラ・サールのハーモニカバンドは、石井先生の転出と共に消滅しているのは何とも解せない、と石井先生もさかんに嘆いていらっしゃいます」と記しています。

 しかしながら、我々のハーモニカ部はもっと続いていたことが分かりました。良く考えてみると、小生がハーモニカ部を引継いだ昭和二十九年春に、ブラザー・オーラス先生を通じて多額の援助金をハーモニカ購入の為にカナダのカソリック本部から送って貰っているのです。それは小生も関与していますが、ブラザー・オーラス先生の関与が非常に大きい。そのブラザー・オーラス先生は鹿児島ラ・サールに留まっていたし、昭和三十三年度から昭和三十六年度までは校長として在籍しています。故に、少なくとも昭和三十六年度まではハーモニカ部を存続させたはずと考えるのが妥当でしょう。
 事実、昭和三十一年四月にラ・サール中学部第一期生(ラ・サール十一期生)として入学した久永修司君、内門修一君ら後輩の記憶によると、久永修司君らはハーモニカ部に入部しており、毎年、クリスマスに合わせて練習し、クリスマスのイベントで合奏していたとのことです。そして、昭和三十七年卒業時の卒業アルバムに、ハーモニカ部は音楽の森川先生(顧問?)、浜島洋一君(部長)および後輩達(その後、ハーモニカ部を引継いでくれたか?)と一緒に写っており、少なくとも昭和三十七年二月まではハーモニカ部が存在していた事は確かです。

 その後の経過ですが、昭和五十年度から昭和五十七年途中までブラザー・オーラスが六代目校長として再び在籍していますが、昭和五十二年中学入学の三十二期生によると、ハーモニカ部は存在していなかったと記憶しており、昭和五十八年の卒業アルバムにもハーモニカ部は載っていないとのことです。

 即ち、ハーモニカ部は昭和三十八年から昭和五十二年の間に消滅したと言えます。
この間の詳細については、小生はこれ以上調べることが出来ませんでした。
 もし、ハーモニカ部が昭和三十七年でもって消滅していたとしたら、オーラス先生と共に鹿児島ラ・サールから消えたことになりますが、少し出来すぎでしょうか・・・。


最後に

 編集者から「今回の卒後五十周年記念誌には、各クラブ活動などを紹介するエピソード特集のようなものを企画したい。ついては、ハーモニカバンドについては感動した強烈な思い出があるので、是非ハーモニカ部のことを書いて欲しい」との要請がありました。このことに関して当時のことが走馬灯のように浮かんできたが、小生には自分に関してのことしか殆ど思い出せなかった。そこで、数人にハーモニカ部のこと、その詳細についていろいろ聞いてみたが、思い出すことができる人は少なかった。そして、記憶にのこっているという人々のその内容を突き合わせてみると、その内容に食い違いがありすぎた。

 それなら、二ツ木の目から見たハーモニカ部のことではなく、
ハーモニカ部に関係した大多数の人々の記憶を集大成して、ラ・サール学園の創設期に存在したハーモニカ部の実態を記録として残す(記述する)ことにした。

 石井先生から二回に渡っての手紙・資料の送付を得、調べ得たハーモニカ部員のメンバーだったと思われる学友、特に四期生の二十数名からの情報、そして、故平川正徳君の「小松原 二十三巻」に投稿してある「ハーモニカバンドの思い出」も参照した。更に、五期生の寺元たかし君、東郷 実保君、西郷 豪敏君など、その他六期から三十二期までの約二十数名の後輩を含め、
約三カ月間にわたっての資料収集(大調査)になったが、非常に多数の人々の助言・協力を得て、どうにか前記に記したような事柄が判明した。

 昭和二十七年から少なくとも昭和三十七年までの十一年間は、鹿児島ラ・サール学園にはハーモニカ部が存在し、その実態は前述したようなことであったと判明した範囲でその実態をまとめることが出来た
 ハーモニカ部のことを記述するについて非常に多数の人々の助けを借りて、どうにかその実態をまとめることができました。忙しい中を協力して頂いた皆さまに感謝いたします。



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タグ : ハーモニカ 鹿児島ラ・サール 四期生 50周年記念誌 ハーモニカ部

このブログ(自分史)の目次

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       最終更新日:2015-8-25

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最新ブログ(更新したもの) 2015.8.25
237)
ラ・サール4期 卒業50周年記念同窓会 2015.8.17
238)1.学園生活 卒業その後【卒業50周年記念誌】 2015.8.20
239) 2.ハーモニカ部 【卒業50周年記念誌】2015.8.25






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第一部 満州からの引揚げ(孤児、満州三兄弟)

01)満州からの引揚げ
02)上海での優雅な生活 - 幼少時から小学校低学年
03)上海での優雅な生活 - 新公園の思い出
04)上海での優雅な生活 - 狄思威路アパート
05)感激の瞬間、アパートの部屋発見
06)貧困な中国社会、その後の発展
07)「人民元」と「兌換元」
08)僕が経験した上海の現実
09)日本海軍特別陸戦隊
10)小学生の僕が美味しいと思った食べ物
11)上海から、満州・奉天へ疎開
12)ぼた山に人骨ギッシリ
13)[ぼた山に人骨ギッシリ] の考案 - アメリカおよび日本の狂気 == 外国から約300通のコメントあり、非公開とした
14)終戦、そして西本願寺に逃げ込む
15)ソ連軍、八路軍、そして国府軍の駐留
16)母ちゃんが死んじゃった
17)シラミと過ごした8ヶ月間
18)誰か食べさせてくれた人がいたか
19)盗みカッパライで食べた孤児の生活
20)優しかった満人の露天商(ポップコーン、煎餅)
21)満人の「人さらい」はいない
22)人殺し方法を夢見た日々
23)まる裸・フリチンで市内を縄跳び、捕まった
24)戦後の学校教育、冬の「三寒四温」
25)虫食いだらけのビスケット
26)引揚げ途中、10円貰ってオニギリ1個
27)引揚げ途中での悔しさ
28)引揚げ乗船前の行軍中のイライラ
29)引揚げ行軍中の生涯忘れえぬ大感激
30)人間魚雷発射軍艦(?)でコロ島から博多港へ
31)下船延期、博多の検疫病院に健三が入院
32)無一文引揚者に対する金銭援助・給付金
33)帰郷後、僕らを探してくれた人
34)奉天(瀋陽)を訪れる
35)メッセージになる僕らの体験
36)【付録】貧困な中国社会、その後の発展
37)【付録】アメリカおよび日本の狂気【本/社会】
 == 外国から約700通を超えるコメントあり、非公開とした
38)「自分史を書くに至った理由」
39)抜けた真ん中、帰ってきた3番目





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第二部 小・中・高校生時代(帰国後)

40)感心感心と云われて戸惑う、兄弟三人の引揚げ
41)全く分からない鹿児島弁
42)鹿児島の女性差別
43)小学生生の決闘、喧嘩の順番
44)雪の中を裸足で登校、小学生の時
45)川泳ぎ、大雨後の増水時に流される
46)川釣りを楽しむ
47)銀しゃりをたらふく食べた食べた
48)カイコさなぎの味噌汁、食べさせられた
49)ニッキの木の根をかじった
50)父の生前遺言「親兄弟でも保証人になるな」
51)小学生の僕が営業した貸本屋
52)金回りが良いのでチビのガキ大将になった
53)僕はレンタルビデオ店の先駆者だ
54)小学生の時の遊び(1)夢中になった遊び
55)小学生の時の遊び(2)特に熱中した遊び
56)父の再婚、健三を養子に出す
57)父への反抗、継母いじめ
58)健三「生みの親より育ての親」
59)真空管ラジオの制作、小学5年生
60)僕は勉強できると判明、鹿児島市内の中学に転校
61)僕は家を出て、長男としての任務は俊二へ
62)親に内緒でラ・サール高校を受験
63)開校当時のラ・サール高校の環境
64)ラ・サール高校でのクラブ活動
65)タイプライターで肖像画を描く
66)ラ・サール学園のハーモニカ部
67)ハーモニカ独奏について
68)分散和音奏法、ハーモニカ独奏
69)ラサール高校寮の環境
70)寮生の食事、娯楽、勉強環境
71)ラ・サールでの猛勉強の経験
72)工学部志望、このため浪人を希望
73)念願の予備校生活
74)4ヶ月間で浪人生活挫折
75)桜島の爆発、昭和30年
76)本に収まるポータブルラジオの制作
77)肺結核に対する恐怖心





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第三部 大学・医学部時代(ジャズドラマー)

78)トランプで決めた医学部への入学
81)医学部・教養時代の生活
82)いいアルバイトと、キャバレーを紹介された
83)「水酌んでこい」「タバコ買ってこい」
84)ロカビリーを聞きに東京に行く
85)ミュージシャンの生活環境
86)ジャズの歴史
87)デキシーランドバンドに紹介された
88)平原勉のデキシーランドバンドの経験
89)ドラマーとしての評価を得た!
90)博多のキャバレーでの経験
91)父「それも良かろう今迄通り金送る」
92)長崎の「銀馬車」にドラマーとして勤務
93)ジャズ喫茶に出演
94)「重いリズム」「軽いリズム」
95)帰省中に、布団一式等が入質されていた
96)僕が好きだったジャズプレイヤー
97)非常にノリが良いピアニストとの出会い
98)バンドマスターの経験
99)僕が持っていたジャズレコード
100)フルバンドをコンボスタイルでドラミング!
101)ジャズバンドの構成
102)"アドリブ" と "フェイク"
103)ジャズの分類、三つのジャズスタイル
104)念願かなってビッグバンドのドラマーに
105)外人ショウを途中で中止させた!
106)ドラマーとテクニック
107)ビッグバンドの『ジャンゴ』
108)ジャズアルバイトから完全に手を引く 昭和37年

109)棘突起過敏症、そして肺結核に罹った
110)入院しながらの卒業試験
111)急性虫垂炎の手術、術後、緑膿菌の皮下膿瘍
112)3ヶ月遅れのインターン生活  昭和38年
113)インターン生、医師国家試験前に僻地に出張  昭和38年


114)学生ジャズバンド "スイングボート" 結成  昭和38年
235)長崎大学スイングボート "定期演奏会" 昭和39年
191)新宿ピットインでジャズを楽しむ 55年頃 昭和55年 <= 第六部
192)タモリの店でジャムセッション、2時間 昭和55年 <= 第六部
236)「新長崎市史」 に僕のことが掲載された 2015.1.31





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第四部 大学院時代(アフリカ滞在 1年)

115)大学院でウイルス学を研究することになった
116)アデノウイルスの研究
117)アフリカに行くことになってしまった!!
118)アフリカへの珍道中1 パスポートを忘れた
119)アフリカへの珍道中2 もう飛行機に乗らない
120)アフリカへの珍道中3 インドでコーラ飲む
121)ケニア:ナクールの観光
122)「ムワンザ」到着直後、HeLa細胞のジャー爆発
123)#1 タンザニア「ムワンザ」での日常生活
124)#2 タンザニア「ムワンザ」での日常生活
125)東アフリカに於けるウイルスの研究(1)
126)東アフリカに於けるウイルスの研究(2)
127)ムアンザの夜の顔
128)軍隊内のダンスパーティーで踊り明かす
129)ビクトリア湖畔でくつろぐ
130)ウガンダのウイルス研究所を訪れる
131)タンザニアの道路、交通事情
132)無免許、酔っ払い運転
133)Williamson ダイヤモンド鉱山
134)セレンゲティ動物園へ
135)エピソードあれこれ、タンザニア
136)『マライカ』というタンザニアの歌曲
137)アフリカの土産物
138)銀行を摂取された! 至急帰国になった
139)イミグレーション:ビザを1ヶ月延長
140)タンザニアとおさらば
141)ケニアを観光して、アフリカを離れる
142)帰国した! = バンコック、香港を経由 =
143)ポレポレのタンザニア、コセコセの日本
144)世界一長い英語論文を書いた





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第五部 医師として(長崎時代)

145)呼吸器を辞めて消化器専門になることにした
146)ゴルフは絶対にしない!
147)歌舞伎町 1夜で15万円!、昭和44年
148)苦しくない胃内視鏡検査
149)胃X線検査法に凝りに凝る
150) EBウイルス感染症か:高熱とリンパ節腫脹
151)昭和30年代の長崎の経済状態【追記】 => 89)の後半へ転記
152)東望病院での診療業務、家庭サービス
153)父が脳梗塞で倒れる
154)白壁彦夫先生に僕の強烈な印象を与えた
155)佐世保市立総合病院に勤務した
156)日中は診療に明暮れ、夜は "軍隊バー" へ
157)長崎の「早期胃癌研究会」
159)長崎大学病院の文部教官になった
160)「病理組織型別にみた胃癌の鑑別診断」
161)多くなった癌の主題:地方会のシンポジウム
162)巨大な両側性の珊瑚状結石が発見された
163)満州孤児の時の、弟・俊二のワダカマリ
164)紅葉見物「枯葉を見て何が楽しい」
165)胃穿刺吸引細胞診、1973年
166)文部省科学研究費 一般D、個人研究費
167)内定していた学会長を奪い取ってしまう
168)内視鏡学会長が分離独立した理由
169)実行委員として合同秋季大会(長崎) の準備
170)合同秋季大会(長崎)、学会当日の運営
171)田代美代子とデュエットした
172)「カキフライを食べよう」、柿フライ?
173)グルメの僕、特に魚介類が好物
174)死ぬ思いでフグを食べた
176)ライフワークの臨床的研究を論文に出来ず
177)長崎大学医学部の学生運動、昭和50年前後
178)僕は「真性多血症の疑い」ありと
179)息子が「ラ・サールに入学したい」と
180)「君マージャンするかね」と、村上教授
181)長崎大学を辞めて、埼玉に行くことに





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第六部 埼玉県立がんセンター

182)採血しない看護婦、埼玉県立がんセンター
183)埼玉まで鳴り響いていた僕のドラマー
184)急性膵炎の為3ヶ月で12Kg体重減少
185)全身麻酔で声帯ポリープを切除
187)埼玉県立がんセンターでの勤務状態
188)灰色の巨塔1、開設時の埼玉県立がんセンター
189)灰色の巨塔2、開設時の埼玉県立がんセンター
190)アジア太平洋内視鏡学会で発表、s55年
191)新宿ピットインでジャズを楽しむ 55年頃 =>=>第三部
192)タモリの店でジャムセッション、2時間 =>=>第三部
193)厚生省から医療援助で沖縄に派遣された
194)抗癌剤のみで完全に治癒した進行胃癌症例
195)進行癌に対するレーザ治療
196)週刊誌グラビア特集の一面に掲載された
197)「ガン告知」がない時代が良かったか1
198)「ガン告知」がない時代が良かったか 2
199)「がん告知」の功罪
200)中心静脈栄養法カテ挿入ミスで大事故
201)「中心静脈栄養法」の進歩、発展
202)「中心静脈栄養法」の発展、CVポート
203)手持金10万円で49坪の一軒家を建てた
204)灰色の巨塔3、昭和50年前後の大学の医局
206)ミュンヘンの国際学会でレーザ治療成績発表
207)「先生は共産党員ですか」と
208)消化器内視鏡学会 埼玉部会の設立
209)厚生省がん研究助成金
212)癌性腹膜炎に有効な "MFP 療法"
213)第8回消化器レーザー内視鏡研究会を主催
214)僕とアツレキを生じていた? 父亡くなる
216)当センター大腸疾患の専門家、若くして急死
217)第8回日本消化器内視鏡学会関東セミナー主催
218)母の「50回忌」
219)業績1:病理組織型別にみた胃癌の鑑別診断
220)業績2:癌に対する化学療法
221)業績3:進行がんに対するレーザー治療
223)業績4:バルーンによるレーザー温熱療法
224)業績5:免疫、X線、症例報告
225)業績6:ウイルス学、その他の研究
226)埼玉県立がんセンター退職 





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第七部 雑文、その他

79)「ブーマージャン」
80)「カラ打ちパチンコ」
158)【考察】医者と製薬業界との関係
175)アルコール飲料は放射線防護剤になるか?
186)トランプ占いによる医学部入学、後日談
205)「川身変更の由来」残念至極の先祖の古文書
210)医学的 "差別用語"
211)医学用語・医学略語
215)レセプト病名、保険病名、カルテ病名
222)ルーレット必勝法(確率からの検討)
227)完全な禁煙に成功、55才 
230)風邪に抗生物質は効かない





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第八部 がんセンター退職後
228)"雇われ院長" として勤務1
229)"雇われ院長" として勤務2
231) リハビリ専門病院に勤務  <= 2014.4.15更新
234)お母さん(継母)死亡、2004年 <= 2014.5.11更新
237)ラ・サール4期 卒業50周年記念同窓会 <= 2014.8.17更新 







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第九部 国際学会、海外旅行
232)CPT-11 治験発表、ASCO 1993  <= 2014.4.27更新
233)"ディズニーワールド" 観光、1993年 <= 2014.4.30更新


最新ブログ(更新したもの) 2015.8.25
237)
ラ・サール4期 卒業50周年記念同窓会 2015.8.17
238)1.学園生活 卒業その後【卒業50周年記念誌】 2015.8.20
239) 2.ハーモニカ部 【卒業50周年記念誌】2015.8.25更新



タグ : ブログの目次

1.学園生活 卒業その後【卒業50周年記念誌】


 鹿児島ラ・サール 四期生
 【50周年記念誌】 2005
 No.1 学園生活、卒業その後



卒業五十周年記念誌、四期生 2005 282-198

1. 学園生活、卒業その後、1 282-198 1. 学園生活、卒業その後、2 282-198 1. 学園生活、卒業その後、3 282-198

作成された本をスキャンしたものを拡大表示しても、字体が小さく、しかも縦書きなので読みづらい。
故に、その文章をそのまま横書きにして、投稿することにした。



鹿児島ラ・サール高等学校 四期生 ”卒業50周年記念同窓会” に際して、【50周年記念誌】が刊行された。2005年 11月 25日(発行日)

1) 巻頭言、 五十周年大会報告  
2) 記念講演(要旨):牧本次生
3) 恩師寄稿
4) 第一部「同期生交歓」
,,,,,「恩師寄稿文」に引続いて、第一部 として八十六名の同級生から
,,,「随筆その他、個人の自由な文章」が投稿された。
5) 第二部
,,,第二部 として、編集者により選定された十四の文章が取り上げられた。


 僕は、第二部 において、二編の投稿を依頼されたので、合計、三編の投稿となった。

============================================ ============================================

学園生活、卒業その後
,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,二ツ木浩一


入学のいきさつ

 ある日、ブラザーが鹿児島市立城西中学校にラ・サールの宣伝に来た。
朝礼のときに、先輩がブラザーの話をすらすらと通訳したのを目にし、格好良いと大変感銘した。
鹿児島市内の琉球大学生用の寮に転がり込んでいた小生は、ラ・サールに入るのだと勝手に決めた
当時は校区性であり、担任の先生が越境入学出来るように手配して下さっていたのだが無視しての(勝手な)決断である。

そして、鹿屋市に在住していた両親にも無断での受験であり、父の反対を押し切って、憧れのラ・サール高校に入学した。
 入学後は、父が鹿屋市に保健所長として在住しており、医師ではあるが単なる公務員であり薄給であるので、三年間の寮生活となった。

クラブ活動を中心とした思い出、そして、卒業後について述べたいと思う。


クラブ活動について

 クラブ活動は、体育系以外は殆どの部に入っていた。ハーモニカ部、ローラースケート部、短歌俳句部、音学部、地学部、演劇部、山岳部、その他、タイプライター教室にも参加していた。

 最も力を入れてほぼ三年間活動したのはハーモニカ部である。

 短歌俳句部は二年間は続かなかったが、自分としては程々に詠めたと思った「俳句」は短冊に三、四句、したためて持っている。しかし、最近目にする機会を得た「ラ・サール タイムズ」に自分が作った「短歌」がいくつか載っていたが「ヘー、こんな短歌も詠んでいたのか。」と、自分ながら感嘆しきり!

 音学部、地学部は一年生の時にチョイ参加しており、演劇部はたしか三年生のころ端役で出演したくらいである。

1)「ローラースケート部」

 ローラースケート部というのがあったことをご存知の級友は少ないのではないかな。
この頃、ローラースケートが流行っていて、市内にはその有料施設も多数出来ていた。
 この部は多分小生が作ったと思われるが、部員は二十数名いて、練習・運動の場としては講堂 (St. Joseph's Hall) の外側の板張りの廊下を利用して滑っていた。そして、小生は曲芸まがいのことも出来る迄になっていたが、約一年後には消滅してしまった。このローラースケート部が存在したからこそ、その後、小生はアイススケートが出来るようになったので、ローラースケート部 さまさま です。

2)「山岳部」

 山岳部としての活動では無かったかも知れないが、小生は少なくとも二十回以上は桜島に登った。その大半は、平川君とであった。
軽石で敷き詰められた道を登るのは踏ん張りが利かなくて、「三歩登り、二歩滑り落ちる」と表現出来る非常に登りにくい山の一つである、と思うのは小生だけであろうか。
三年生の頃には自動車用登山道路が作られつつあったが、あえて旧道を登り、自動車道路に出ても旧道を探して登ったことが忘れられない。
 なお、三学年三学期のころ、平川君に誘われて純心女子高校生の数名と、どこの山であったか思い出せないが、ある山に登った。この時の写真が問題になり、ラ・サールとしての処分は純真学園の処分を待って行うとのことになった。しかし、純真学園では処分なしであったのでほっとした。

3)「タイプライター教室」

 タイプライター教室には三年間通った。そして約一年半後に、「一分間で五十六文字」の免状をとった。その後は赤と青のリボンを用いて絵画を打って遊んでいた。
 その後、約半年がかりで顔写真をタイプライターで模写した。
これは、”o”と”x”を使用して、使い古しのリボンから徐々に新しいリボンを使用して、濃淡を出しながら作成した。

 そして、その顔写真と小生が模写した肖像画が、「ライフ」に載ったようである。しかし、その時はこのことが自分にとって貴重なことであるとは全く考えもしなかった。若かったなー。 しかし、今となっては小生にとっての宝物である。卒業数年後にタイプライター室をのぞいたら、ブラザー・オジロも健在であり小生が作成した肖像画はまだ展示してあった。その時、写真でも撮っておけば良かったが・・・、「貰えないか」と頼んでみるのも忘れたのが残念!
 ところで、ブラザー・オジロもいなくなり、タイプライターもパソコンに変わった現在、小生が作成した肖像画は今どこに在るのだろうか。
今となっては手元に欲しいと思うこの頃である。


卒業、そして、医者かジャズドラマーか

 小生は工学部(弱電)志望であったので、ラ・サールでは生物学をとらなかった。しかし、一年間の浪人生活にて急遽、医学部を受けてみることになった。そして、父親と同じ長崎大学医学部に入学したが、医学部を退学してどうしても工学部に入り直したかった。

 その事や、その他いろいろあり、一年間休学までして音楽(ジャズドラム)にのめり込んだ。ジャズドラムに関してはセミプロ級にまで なっていた。 そこで、父に「勘当!」と言われるのを覚悟で、「医学部を辞めたいと思っている状態では、医学部・音楽ともに中途半端になってしまう。故に、一年間休学して音楽に打ち込んでみたい。」ことを手紙にしたためた。「それもよかろう。今までどうり金は送る」との返事あり。故に、父にすまないと、音楽の分野はスパッとやめて医者になることを決心した次第。小生は父のような寛容な親にはまずなれないであろう。医師を選択して良かった!ジャズマンだったらとっくの昔に失職!

 父は上海に残り、母と兄弟三人で昭和二十年五月に満州(奉天)に疎開、その地で母親が病死しその後は孤児として生活、そして昭和二十一年十月に二人の弟を連れて引き揚げてきたことに関連したことで父には貸しがあるが、これを差引いたとしても小生は父親に感謝しなければならない。


一年間のアフリカ生活

 長崎大学大学院医学研究科二年生の学期末の頃、文部省科学研究費にてウイルス研究のため一年間アフリカ・タンザニアに行けとの命令じみた話がきた。 アフリカといえば小生にとっては、ジャングル・野生動物の土地という先入観で凝り固まった場所である。もしかしたら、とんでもない病気に罹るかも知れないとの決死の覚悟で仕方なく赴任した。
行ってみれば赤道直下ではあるが高度千メートルの高地であるので、住みやすい土地であった。
22. ムワンザ宿舎27 近接 282-198

 ステテコスタイルで高級住宅で生活し、「 This stile is Japanese famous one, Su-te-te-ko. 」と来客した外人さんには紹介!
 毎週土曜日には、現地バー主催のダンスパーティーで徹夜で踊りまくり
現地人と仲よくなった。そして、半年後には接頭辞・接頭変化のスワヒリ語をべらべらと喋れるようになり、非常に楽しいアフリカ生活であった。



埼玉県立がんセンターへ

 医学部を卒業後、消化器の分野でいくら頑張っても「あいつは学生時代には遊んでいた」として、白い目で見られることが多くて・・・。そこで、長崎を脱出することにした。その裏には、消化器分野では全国的・世界的に著名な教授から東京に出てこないかという依頼を数回受けていたという背景があったが。
 昭和五十一年に埼玉県立がんセンターが立ち上がった時に消化器科の長として着任した。県立がんセンターは三十以上の大学(医学部)からの六十数名の医師の集団だった。うち、群馬大学二十数名、東京大学十数名、その他の大学は一校一名であった。長崎からは三人メンバーだったので、長崎大学は第三の勢力となったのです。

 小生の歓迎会の時に放射線部の部長が「先生は長崎ではジャズをしていたそうですね・・・」と。
頭の先から尻の穴まで「ゾゾゾーン・・・ガクーン・・・」。
長崎のことが埼玉まで伝わっているのか。ジャズのことは全く知らないはずと思って長崎から遥か彼方であるダサイタマに逃げてきたのにー。
まあ待てよ、「小生はそれほど有名人なのか!」と思うことにして・・・
「まあ、いいか・・・」。


 その後分かったことではあるが、現在そして今後の診療・研究に対する姿勢・成績が重要であって、むしろ誰も真似できないような特別な趣味があるのは羨ましいことなのだとのこと。これが長崎と関東との差なのだろう。関東は医者にとっては実力主義であり、努力すれば認められる地域である。
 消化器の診断(特に、X線・内視鏡)、および治療、そして、がん専門医として第二の故郷として埼玉に在住している。身体の許すかぎり早期癌の発見、そして、進行癌を含めての癌治療に力を注ぎたいと思っている。


最後に

 私にとっては数少ない親友の平川君、俣江君に先立たれてしまったことは非常に心寂しい限りである。
 そして、われわれの大多数は、長くても二十年以内にはこの世から旅立つはずである。その大半は、がん、脳疾患、および心臓疾患であろう。
 これらの三大死亡疾患の場合は、何らかの治療は必要であろう。しかし、どのような治療を、どのような時期に、そして、どのような施設で受けるかが問題である。

 治療は医師が行うので「医師」を選ぶべきだが、素人にとってはその肝心な医師を選ぶことが難しい。それ故に、大学病院、がんセンター、大きな奇麗な建物の病院、名前が売れている有名な病院、すなわち医師ではなく「建物」を選んで治療を受けているのが現状である。大病院ではどのような医師に当るかまず分からない。
 ここで最も重要なことは、がんの場合には「何もしないのが最も良い治療法の一つ」である場合があることを十分に知っておく必要がある。 このことを裏付ける裏話は山ほどあるが、活字にて話すことは出来ない。
 小生の経験・知見からいえば、がんの治療さえ受けなければもっともっと長生き出来たはずである人はかなり存在する。がん治療の為に、早死しないようにしたい。

 ところで、ラ・サール卒業のとき寮の先輩として在寮生への挨拶で、小生が「一晩寝ずに散々熟慮した結果、次の言葉を諸君に贈りたい。Boys, be ambitious !」と話したため、大いにうけて大笑いになったとのことを平岡五郎君から聞きましたが・・・。残念ながら小生は全く覚えておりません。
 しかし、スピーチはなるべく簡単に、ユーモアをもって、そして印象に残るようなことを! が小生のモットーであるので、多分そのようなことを話したのだろうと思います。

そこで、諸君 四期生に対してJi-jies, be healthily long life !


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タグ : 鹿児島 ラ・サール4期 50周年記念誌 学園生活、卒業その後

卒業50周年記念同窓会、ラ・サール4期


  鹿児島ラ・サール高等学校 四期生
      卒業50周年記念同窓会 が、
  平成17年(2005年)5月に開催された



僕らが、「鹿児島ラサール高等学校」に ”四時性” として入学したのは、戦後7年弱の昭和27年4月である。

その2年前の昭和25年に、一期生と二期生とが募集された。 
一期生は高校二年生から20数名が募集・編入され、二期生が100名弱(2クラス)の募集であった。

その翌年の昭和26年に、三期生が4クラス、200名弱が募集され、我々四期生も4クラスであった。

故に、僕らが入学試験を受けた時には、一期生の二十数名の人たちがどこの大学に入学したのかは不明であった。
僕がラ・サール高校を受験した理由は、朝礼の時に、外人(ブラザー)がペラペラと英語を話した後に、中学の先輩がスラスラと日本語に翻訳したことに感激したからであり、動機としては単純(不純)なものかな?

ラ・サール高校が進学校として有名校になったのは、我々が卒業した後のことである。
故に、ラ・サール高校の基礎を築いたのは、我々が大きく寄与していると言える、だろう・・・。
  

さて、卒後50年間生活をしてきたということは、人生の大半を過ごしてきたことであり、残り人生は多くはない。

しかし、今までは、主として仕事、仕事であった。
今後は、残り少ない余生であるけれども、
    人生は今から始まるのだ」 と、

意気揚々とした ”卒業50周年記念同窓会” であった!!




 
四期生 「卒業50周年記念同窓会」 は、平成17年(2005年) 5月 26〜28日の延べ三日間に行われた
 


   1) ”前夜祭”、5月26日夜

       前夜祭 LS4-c.2T 155-109 前夜祭 LS4-c.4T 155-109


  2) ”母校の見学・講演会”、5月27日

学園  LS4-a.22T 155-109 学園  LS4-a.24 155-109
 ,,,,,,,,,,,,,,, 学園  LS4-a.28 155-109 学園  LS4-a.30 155-109
,,,,,,,,,,,,,,,,,懐かしい建物も残っているが、昔の面影が全くなくなった校舎


学園  LS4-a.19 155-109 学園  LS4-a.10 155-109
新しい講堂で、牧本 次生君の講演を聞く


  3) 「卒業50周年記念同窓会」 ”祝宴” は、城山観光ホテルで 5月27日に行われた

祝賀会-桜島 1. LS4b180 282-198
 城山観光ホテルから桜島を望む

,,,,,,,,,,,,,,,,,,, 祝賀会-全員集合 2. LS4b002 282-198
 ,,,,,,,,,,,,,,,,,,, 全員の集合写真である。卒業生の男性は70数名存在する。 その他、女性が20数名、このうち数名は卒業生の為に代理出席した人たちである。故に、卒業生160数名中、その半数は出席したことになる。

祝賀会 3. LS4b027 282-198 大友先生
,,,,,,,,,,,,,,,,,, 祝賀会 4. LS4b021 282-198 石井先生


祝賀会 5. LS4b018 282-198
余興として、「薩摩琵琶」 を見聞きすることになった。
「琵琶」については、全くの予備知識がなく、聞くことができるなどとは想像もしなかった。
・・・ところが、ところが、非常に素晴らしいものでビックリ仰天した!!

そこで、ここで再び聞き直そうと思って、いくつかの曲を下記に調べ上げた。
今、聞いてみると感動しない!   雰囲気(舞台)でのことだったのかなー。

   参照)薩摩琵琶 - Wikipedia
   参照)薩摩琵琶の演奏です(明治村)
   参照)鶴田 錦史 - 壇の浦 (Tsuruta Kinshi - Dan-no-Ura)


,,,,,,,,,,,,,,,,,,, 祝賀会 6. LS4-b.109 282-198


鹿児島ラ・サール学園の全ての集会・同窓会などでは、その会が終了する前には、全員がお互いに肩を組んで大きな輪を作り、「ラ・サール讃歌」 を歌って散会するのが慣習になっている。


   参照)ラ・サール賛歌
   参照)ラ・サール讃歌熱唱!2011鹿児島ラ・サール東京同窓会総会


祝賀会 7. LS4b152 282-198
,,,,,,,,,,,,,,,,,,, 祝賀会 8. LS4b148 282-198 
全員が肩を組んで大きな輪を作り、「 ラ・サール賛歌 」を合唱して、 「卒業50周年記念同窓会」祝宴は終了した。


  4) ”二次会” も城山観光ホテルで

二次会  LS4d05 155-109 二次会 LS4d07 155-109

,,,,,,,,,,,,,,,,,,, 二次会 LS4d13 155-109 二次会 LS4d37S 155-109



  5) 翌5月28日には、ゴルフ・遠足 が行われた

遠足ゴルフ LS4-e04W 155-109 遠足ゴルフ LS4-e07W 155-109

,,,,,,,,,,,,,,,,,,, 遠足ゴルフ LS4-f05T 155-109 遠足ゴルフ LS4-f14T 155-109



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「新長崎市史」 に僕のことが掲載された


  新長崎市史 第四巻現代編の 「コラム」 に
  二ツ木 浩一が医学部生時代に、約5年間
  ジャズドラマーとして活躍したことが掲載された



僕の医学部生時代

僕は、昭和31年に入学し、昭和38年に卒業した。故に、医学部生の期間は6年+1年休学の7年間だった。
この1年間の休学は、博多のキャバレーに勤務した為に、実習の単位がとれなくなるので休学にした訳である。(実習には代返が効かない!)
その他の講義に対しては、代返・代返で対応してきた。
故に、僕は代返で卒業出来たといえる。
代返を常に行ってくれたNM君に感謝!感謝!。
参照)入院しながらの卒業試験

毎日の演奏時間は、年中無休の365日、1日3時間(45分間ステージを4回)。

演奏内容は、音楽の全てのジャンル。
但し、コンボバンドではジャズ演奏が主体であった。
一方、ビッグバンドでは、ジャズは1st stage のみ行うことが出来た。他は客が踊ることが出来るような曲が主体であった。

卒業前のほぼ1年間のビッグバンド時代では、大型の外人ショウ(1日2回)などの昼間のリハーサルは、コンボバンドのドラマーに変わってもらっていた。
 これは、卒業試験が迫っていることもあり、少なくとも午後の授業には出席した為である。
そして、ショウの本番の最初のステージは演奏して貰って、それを見て 2回目からのショウに対しては僕がドラム演奏した。

大型の外人ショウの時、ショウが中止してしまったことがあったっけ。
参照)外人ショウを途中で中止させた!


新長崎市史の発刊

長崎市では大正12年から昭和13年にかけて刊行された「長崎市史」
昭和14年刊行の「長崎市制50年史」
昭和31年~34年刊行の「長崎市制65年史」と3種類の市史、
そして、昭和56年に「長崎市史年表」
平成元年に「市制百年長崎年表」と2種類の年表を刊行しています。
 しかし、時の流れに沿って体系的に記述された市史類はなく、新しい通史の刊行は長年の懸案事項となっていました。

また、合併等により市域が大幅に拡大していることなどから、
市制施行120周年を迎えるにあたり、 「新長崎市史」を編さんすることになったようです。

参照)長崎市「新長崎市史」について

平成25年から【新長崎市史】が発刊され、
 1)新長崎市史 第一巻自然編、先史・古代編、中世編
 2)新長崎市史 第二巻近世編
 平成25年5月31日に、3)新長崎市史 第四巻現代編
 そして、4)新長崎市史 第三巻近代編 が発刊された。




新長崎市史 第四巻 現代編に、僕のジャズドラマー時代のことがコラムとして掲載された

[新長崎市史] 336頁 コラム「二ツ木」
新長崎市史 第四巻 現代編 336頁、コラム2-10 「3大キャバレーのドラマーを勤めた医学生」 をコピー転載



[新長崎市史] ブックカバー 1510-2134 [新長崎市史] 本の表紙 3 151-204
新長崎市史 第四巻 現代編 のブックカバーと本の表紙

さて、どうして僕のことが「新長崎市史」に掲載されたのだろうか。
第2章 高度成長の光と陰 の項目の中に掲載されている。

高度成長ー> キャバレーの台頭ー> ジャズ、ジャズマンの台頭
ー> これに乗っかった医学部生ー> しかし、ジャズに のめり込んだ だけでなく
ー> その後卒業してからは、必死に医学を勉強・研究して、
埼玉県立がんセンターで業績を上げた、からなのか?



僕の名前は、僕の没後、ほぼ永久に長崎市の歴史上の人物 ? ? ?、 となるのか、
新長崎市史 に載ったこと、どのように考えられるのか?

このブログを見た方々の忌憚ない意見、コメントをお願いしたい・・・



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kagonmakouchan

Author:kagonmakouchan
昭和19年11月25日撮影。
左の健三が満1才の記念写真。
右の俊二は5才4ヶ月、
中央の僕は8才8ヶ月である

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