ミュンヘンの国際学会でレーザ治療成績発表



























昭和60年(1985年)7月2日に、
ドイツ、ミュンヘンで開催された
"第二回国際Nd:YAGレーザ学会" で
"進行胃癌に対する治療成績" を発表


























1985年(昭和60年)7月始めの「ドイツでの国際学会で、レーザー治療成績を発表」するはめに陥った
1985年(昭和60年)4月ころに、中川 高志先生(現:医療法人 大宮シティクリニック所長)から、「ドイツでの7月の 国際学会 にレーザー治療成績を発表しましょう」、と声をかけられた。
僕は、英語での発表は、1980年(s55年)9月25-27日の台北での第3回アジア太平洋内視鏡学会で「Correlation between Histological Types and Endoscopic Findings of Depressed Early Gastric Cancer(病理組織型別にみた陥凹型胃癌の鑑別診断)」 を発表したが、その時の苦労を思い出し、英語で発表するのは懲り懲りだ、と思っていた。
(参照)アジア太平洋内視鏡学会で発表、s55年そこで、僕は発表する気が全く無かったので、
中川高志先生に「君は英語を話せますか」と聞き、彼から「話せます」との返事があったので、中川先生が発表するつもりだろうと思った。(僕は、全く発表するつもりはなかった)
僕らは1982年2月から1985年3月迄の3年1ヶ月の間に、9題の学会口演発表、3題の論文を発表していたので、発表タイトルには、「Treatment of upper digestive cancer with Nd-YAG laser and endoscopy: with focus on the improvement of cardiac stricture.」 のようなものが良いだろう、と中川先生に話した。
そして、今までの発表データーは中川 高志先生も持っているし、英語も話せるとのことなので問題ない、と思った。
我々のデーターでは、胃噴門部(下部食道)の癌性狭窄改善効果が秀でていた。

その後、このことはスッカリ忘れていた。
ある日、1985年6月中旬に入ったころだったと思うが、「ミュンヘンでの発表は、6月下旬か7月上旬ではなかったかな?」と思い出し、
「中川 高志先生から、その後、発表内容についての相談がないが、大丈夫なのかな」、と、
急に心配になり、中川先生を僕の部屋に呼んだ。
「学会発表の準備はどこまで出来ていますか」と、僕は中川先生に聞いた。
そうしたら「発表は二ツ木先生がされることになってます」「発表の筆頭演者を先生の名前にしています」 、と。
僕は「エッ、君が発表するのじゃないのか」「英語は出来ると云ったじゃないか」と。
そうしたら「英語のある程度の会話はできるが、学会発表するようなことは出来ない」、と・・・
トホホ・・・僕は、中川高志先生から嵌められたよ!
もしかしたら、松永圭一郎先生と中川高志先生とグル になってのことかな、とも思った。
松永圭一郎先生は、僕の学位指導の第1号で、埼玉県立がんセンターには一緒に来る予定だったが、長崎大学第二内科の教授の意向でダメになった。
(参照)長崎大学を辞めて、埼玉に行くことに
(参照)急性膵炎の為3ヶ月で12Kg体重減少
松永圭一郎先生は、昭和58年4月~9月「国内留学」として、埼玉県立がんセンターで研修・勤務した。
その時に中川高志先生は、松永先生から色々と教えて貰ったり、研究に従事したりして仲が良い間柄だった。
ミュンヘンでの学会には、松永圭一郎先生(長崎で勤務中)も一緒に行った。
大慌てで、ミュンヘンでの発表準備をする
僕は慌てた!、慌てた!
ミュンヘンでの学会では、発表論文集としての "抄録集・本" を発行するので、そのまま写植出来る "4頁の抄録提出" が義務づけられていた。
僕の場合、発表内容は具体的にどのようになるかは不明なので、 今までの「Nd-YAG laser による進行胃癌に対する治療成績」の集大成を抄録には書くことにした。
提出抄録4頁にきちんと填まる英文をやっと書き上げたが、これを綺麗にタイプする時間がなかった。
神田裕三先生(消化器科の第一医長、肝臓専門)に、タイプライターで打って貰った。
神田裕三先生は僕のラ・サール高校の3級後輩で、僕らはタイプライター教室で習って免状も取っておりタイプライターを打つベテランであった。
抄録 1頁ーーーーーーーーーー抄録 2頁

抄録 3頁ーーーーーーーーーー抄録 4頁
{抄録・本の表紙}ーーーーー{抄録・本の裏表紙}

本来は、その抄録文を前もって送らなければならなかったようだが、僕は持参した。
どのような発表内容・スライド内容にするのか、時間がなく、
スライドを約400枚持参することにして、ドイツに着いてから発表の準備を行うしか方法はなかった。
ミュンヘンの学会場の近隣の宿泊ホテルで、学会発表の準備を1人寂しく行う
6月30日、ホテルに着いた。
僕以外の皆様は、ホテルに着いた直後にホテルを飛び出した。 学会場訪問、或いは、ミュンヘンの市街地の見学・夜は飲み会、などに出かけたようだ。
僕はホテルの部屋に着いたら、直ちにタイプライターを借りた。現在のようなコンピュータ社会では無かった。
そして、発表で使用するスライドの順番、発表口演の英文読み原稿の作成などで、翌日も部屋にひとりぽっちで 閉じこもった状態だった。
なお、ドイツのタイプライターは、僕らが使用していたものとは異なり、アルファベットの{Y}と{Z}の位置が入れ替わっており(ドイツ語QWERTZ配列)、非常に苦労した。
(参照)キー配列 - Wikipedia
2日後の7月1日には、団長である小黒八七郎先生(国立がんセンター内視鏡部長)から誘われて、学会場を視察に行った。
(参照)小黒八七郎 - Wikipediaそして、その夜は、会長招宴でバイエルン地方での宴会に出席した。 発表はどうにか なるだろう、と腹をくくって・・・
学会発表は、1時間4名のシンポジウム形式だった。ギョッ!
学会での口演発表の形式は、シンポジウム形式で、1人15分間、1時間で4名の発表だった。
僕の後の演者が、演題取り下げになった。
故に、僕の発表時間およびディスカッションの時間が、30分間存在することになった。
僕は、質疑応答の時間が少なくなるようにゆっくりと喋った が、口演時間は15分間位だっただろう。
僕の口演発表後は、約20分間に亘る質疑応答になった。
今までの質疑応答で、日本人に対して最も意地悪かったのは、ドイツ人医師だった。
僕の場合も、ドイツ人医師から、徹底的に質問攻めにあった。 僕は頑として自説を曲げなかった。
助けてくれたのは、イギリス及びアメリカ人医師だった。
質疑応答が終わって室外に出た後も、イギリス人医師は追いかけて来て「貴方が言っていることが正しい」と云ってくれた。
"日独伊三国同盟" で最も親しく感じていたドイツ人の野郎め、そして、"鬼畜米英" でこん畜生のはずのイギリス人、アメリカ人 様々だった。
(参照)日独伊三国同盟 - Wikipedia
(参照)鬼畜米英 - アンサイクロペディア僕は、両手を使い外人が行うような、ゼスチャーを使って質問に答えていたようだ。外人と専門的なことを詳しく話すのは初めての経験だった!必死だった!
・・・ある日本人の英語がぺらぺらの、レーザー会社の社長さんから「先生は、殆ど西欧人なみですね」、と云われちゃった、よ。
勿論、英会話そのものでは無く、ゼスチャーを使っての話し振りのことだろうが。
ラ・サール高校3年間の寮生活、そして、昭和27年〜30年のブラザーとの日常会話の賜物かな?
このミュンヘンでの発表で、英語での口演発表に対して、自信が付いた。
もう、国際学会での発表は怖くないぞ!
この後、30数回の国際学会および海外旅行に出かけた。
勿論、準備万全な状態で!
(なお、アメリカは大嫌いだったが、大好きになった)
国際学会で、全くの準備不足で、発表内容・発表スライドの内容 等を、その国際学会が開催される 「現地のホテル」 で行ったのは、
少なくとも日本人では "僕ぐらいかも知れない" 。
僕は、日本での学会発表時の後抄録(発表した内容が学会誌に掲載される)を、列車の中で書いたことは数回あるが、、、
このブログ(自分史)の目次
== 故に、ブログ(自分史)の目次を作成した ==
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最終更新日:2013-05-14
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第一部 満州からの引揚げ(孤児、満州三兄弟)
01)満州からの引揚げ
02)上海での優雅な生活 - 幼少時から小学校低学年
03)上海での優雅な生活 - 新公園の思い出
04)上海での優雅な生活 - 狄思威路アパート
05)感激の瞬間、アパートの部屋発見
06)貧困な中国社会、その後の発展
07)「人民元」と「兌換元」
08)僕が経験した上海の現実
09)日本海軍特別陸戦隊
10)小学生の僕が美味しいと思った食べ物
11)上海から、満州・奉天へ疎開
12)ぼた山に人骨ギッシリ
13)[ぼた山に人骨ギッシリ] の考案 - アメリカおよび日本の狂気 == 外国から約300通のコメントあり、非公開とした
14)終戦、そして西本願寺に逃げ込む
15)ソ連軍、八路軍、そして国府軍の駐留
16)母ちゃんが死んじゃった
17)シラミと過ごした8ヶ月間
18)誰か食べさせてくれた人がいたか
19)盗みカッパライで食べた孤児の生活
20)優しかった満人の露天商(ポップコーン、煎餅)
21)満人の「人さらい」はいない
22)人殺し方法を夢見た日々
23)まる裸・フリチンで市内を縄跳び、捕まった
24)戦後の学校教育、冬の「三寒四温」
25)虫食いだらけのビスケット
26)引揚げ途中、10円貰ってオニギリ1個
27)引揚げ途中での悔しさ
28)引揚げ乗船前の行軍中のイライラ
29)引揚げ行軍中の生涯忘れえぬ大感激
30)人間魚雷発射軍艦(?)でコロ島から博多港へ
31)下船延期、博多の検疫病院に健三が入院
32)無一文引揚者に対する金銭援助・給付金
33)帰郷後、僕らを探してくれた人
34)奉天(瀋陽)を訪れる
35)メッセージになる僕らの体験
36)【付録】貧困な中国社会、その後の発展
37)【付録】アメリカおよび日本の狂気【本/社会】
== 外国から約700通を超えるコメントあり、非公開とした
38)「自分史を書くに至った理由」
39) 抜けた真ん中、帰ってきた3番目
第二部 小・中・高校生時代(帰国後)
40)感心感心と云われて戸惑う、兄弟三人の引揚げ
41)全く分からない鹿児島弁
42)鹿児島の女性差別
43)小学生生の決闘、喧嘩の順番
44)雪の中を裸足で登校、小学生の時
45)川泳ぎ、大雨後の増水時に流される
46)川釣りを楽しむ
47)銀しゃりをたらふく食べた食べた
48)カイコさなぎの味噌汁、食べさせられた
49)ニッキの木の根をかじった
50)父の生前遺言「親兄弟でも保証人になるな」
51)小学生の僕が営業した貸本屋
52)金回りが良いのでチビのガキ大将になった
53)僕はレンタルビデオ店の先駆者だ
54)小学生の時の遊び(1)夢中になった遊び
55)小学生の時の遊び(2)特に熱中した遊び
56)父の再婚、健三を養子に出す
57)父への反抗、継母いじめ
58)健三「生みの親より育ての親」
59)真空管ラジオの制作、小学5年生
60)僕は勉強できると判明、鹿児島市内の中学に転校
61)僕は家を出て、長男としての任務は俊二へ
62)親に内緒でラ・サール高等を受験
63)開校当時のラ・サール高校の環境
64)ラ・サール高校でのクラブ活動
65)タイプライターで肖像画を描く
66)ラ・サール学園のハーモニカ部
67)ハーモニカ独奏について
68)分散和音奏法、ハーモニカ独奏
69)ラ・サール高校の環境
70)寮生の食事、娯楽、勉強環境
71)ラ・サールでの猛勉強の経験
72)工学部志望、このため浪人を希望
73)念願の予備校生活
74)4ヶ月間で浪人生活挫折
75)桜島の爆発、昭和30年
76)本に収まるポータブルラジオの制作
77)肺結核に対する恐怖心
第三部 大学・医学部時代(ジャズドラマー)
78)トランプで決めた医学部への入学
79)「ブーマージャン」
80)「カラ打ちパチンコ」
81)医学部・教養時代の生活
82)いいアルバイトと、キャバレーを紹介された
83)「水酌んでこい」「タバコ買ってこい」
84)ロカビリーを聞きに東京に行く
85)ミュージシャンの生活環境
86)ジャズの歴史
87)デキシーランドバンドに紹介された
88)平原勉のデキシーランドバンドの経験
89)ドラマーとしての評価を得た!
90)博多のキャバレーでの経験
91)父「それも良かろう今迄通り金送る」
92)長崎の「銀馬車」にドラマーとして勤務
93)ジャズ喫茶に出演
94)「重いリズム」「軽いリズム」
95)帰省中に、布団一式等が入質されていた
96)僕が好きだったジャズプレイヤー
97)非常にノリが良いピアニストとの出会い
98)バンドマスターの経験
99)僕が持っていたジャズレコード
100)フルバンドをコンボスタイルでドラミング!
101)ジャズバンドの構成
102)"アドリブ" と "フェイク"
103)ジャズの分類、三つのジャズスタイル
104)念願かなってビッグバンドのドラマーに
105)外人ショウを途中で中止させた!
106)ドラマーとテクニック
107)ビッグバンドの『ジャンゴ』
108)ジャズアルバイトから完全に手を引く
109)棘突起過敏症、そして肺結核に罹った
110)入院しながらの卒業試験
111)急性虫垂炎の手術、術後、緑膿菌の皮下膿瘍
112)3ヶ月遅れのインターン生活
113)インターン生、医師国家試験前に僻地に出張
114)学生ジャズバンド "スイングボート" 結成
第四部 大学院時代(アフリカ滞在 1年)
115)大学院でウイルス学を研究することになった
116)アデノウイルスの研究
117)アフリカに行くことになってしまった!!
118)アフリカへの珍道中1 パスポートを忘れた
119)アフリカへの珍道中2 もう飛行機に乗らない
120)アフリカへの珍道中3 インドでコーラ飲む
121)ケニア:ナクールの観光
122)「ムワンザ」到着直後、HeLa細胞のジャー爆発
123)#1 タンザニア「ムワンザ」での日常生活
124)#2 タンザニア「ムワンザ」での日常生活
125)東アフリカに於けるウイルスの研究(1)
126)東アフリカに於けるウイルスの研究(2)
127)ムアンザの夜の顔
128)軍隊内のダンスパーティーで踊り明かす
129)ビクトリア湖畔でくつろぐ
130)ウガンダのウイルス研究所を訪れる
131)タンザニアの道路、交通事情
132)無免許、酔っ払い運転
133)Williamson ダイヤモンド鉱山
134)セレンゲティ動物園へ
135)エピソードあれこれ、タンザニア
136)『マライカ』というタンザニアの歌曲
137)アフリカの土産物
138)銀行を摂取された! 至急帰国になった
139)イミグレーション:ビザを1ヶ月延長
140)タンザニアとおさらば
141)ケニアを観光して、アフリカを離れる
142)帰国した! = バンコック、香港を経由 =
143)ポレポレのタンザニア、コセコセの日本
144)世界一長い英語論文を書いた
第五部 医師として(長崎時代)
145)呼吸器を辞めて消化器専門になることにした
146)ゴルフは絶対にしない!
147)歌舞伎町 1夜で15万円!、昭和44年
148)苦しくない胃内視鏡検査
149)胃X線検査法に凝りに凝る
150) EBウイルス感染症か:高熱とリンパ節腫脹
151)昭和30年代の長崎の経済状態【追記】
152)東望病院での診療業務、家庭サービス
153)父が脳梗塞で倒れる
154)白壁彦夫先生に僕の強烈な印象を与えた
155)佐世保市立総合病院に勤務した
156)日中は診療に明暮れ、夜は "軍隊バー" へ
157)長崎の「早期胃癌研究会」
158)【考察】医者と製薬業界との関係
159)長崎大学病院の文部教官になった
160)「病理組織型別にみた胃癌の鑑別診断」
161)多くなった癌の主題:地方会のシンポジウム
162)巨大な両側性の珊瑚状結石が発見された
163)満州孤児の時の、弟・俊二のワダカマリ
164)紅葉見物「枯葉を見て何が楽しい」
165)胃穿刺吸引細胞診、1973年
166)文部省科学研究費 一般D、個人研究費
167)内定していた学会長を奪い取ってしまう
168)内視鏡学会長が分離独立した理由
169)実行委員として合同秋季大会(長崎) の準備
170)合同秋季大会(長崎)、学会当日の運営
171)田代美代子とデュエットした
172)「カキフライを食べよう」、柿フライ?
173)グルメの僕、特に魚介類が好物
174)死ぬ思いでフグを食べた
175)アルコール飲料は放射線防護剤になるか?
176)ライフワークの臨床的研究を論文に出来ず
177)長崎大学医学部の学生運動、昭和50年前後
178)僕は「真性多血症の疑い」ありと
179)息子が「ラ・サールに入学したい」と
180)「君マージャンするかね」と、村上教授
181)長崎大学を辞めて、埼玉に行くことに
第六部 埼玉県立がんセンター
182)採血しない看護婦、埼玉県立がんセンター
183)埼玉まで鳴り響いていた僕のドラマー
184)急性膵炎の為3ヶ月で12Kg体重減少
185)全身麻酔で声帯ポリープを切除
186)トランプ占いによる医学部入学、後日談
187)埼玉県立がんセンターでの勤務状態
188)灰色の巨塔1、開設時の埼玉県立がんセンター
189)灰色の巨塔2、開設時の埼玉県立がんセンター
190)アジア太平洋内視鏡学会で発表、s55年
191)新宿ピットインでジャズを楽しむ 55年頃
192)タモリの店でジャムセッション、2時間
193)厚生省から医療援助で沖縄に派遣された
194)抗癌剤のみで完全に治癒した進行胃癌症例
195)進行癌に対するレーザ治療
196)週刊誌グラビア特集の一面に掲載された
197)「ガン告知」がない時代が良かったか1
198)「ガン告知」がない時代が良かったか 2
199)「がん告知」の功罪
200)中心静脈栄養法カテ挿入ミスで大事故
201)「中心静脈栄養法」の進歩、発展
202)「中心静脈栄養法」の発展、CVポート
203)手持金10万円で49坪の一軒家を建てた
204)灰色の巨塔3、昭和50年前後の大学の医局
205)「川身変更の由来」残念至極の先祖の古文書
206)
「川身変更の由来」残念至極の先祖の古文書

























先祖伝承の "残念至極である" との
"古文書"「川身変更の由来」が、
母家を整理していて発見された
























宮之城町に於ける我が母家・持ち家の場所
宮之城町は、2005年に近隣の2つの町と合併して "さつま町" になった。
(参照)宮之城町 - Wikipedia
(参照)さつま町 - Wikipedia
(参照)宮之城橋の地図:マピオン - Mapion宮之城町に於ける我が家の母家・持ち家は、宮之城町で最も栄えていた商店街、「屋地本町」にあった。
母家の前方(道路方向)には、10数軒の持ち家(商店・貸家)が道路沿いにあり屋地下町・商店街を形成しており、
右境界部位と後方境界部は川幅が3〜4メートルの清流の小川(豊川)で境されていた。
(小川は右方向にはぼ直角に曲がって流れていた)
(参照)豊川 - Wikipedia
(参照)一級水系 - Wikipedia
(参照)治水 - Wikipedia母家に植えられている大きな柿の木(我々は "キャラ" と呼んでいた種類のもの)は、この小川(豊川)一面を覆い被さるように 茂っていた。
そして、母家の正面の貸家は、1.5メートル位、小川に突き出ていて、小川の石垣から太い支え棒で支えられていた。
僕は、「変だな」「この様な家を建てることが許可されるのか」、と思っていた。
(参照)建築基準法 - Wikipedia この様な川に突き出ている家の写真を探しているが、昭和20〜30年代に風景を写すことは難しく、存在していないのか、入手出来ない。
昭和35年頃、宮之城町の道路拡張事業があり、この時に我が家の母家・貸家共に、前方・道路側の敷地が無くなった。
我が家の土地の後方は、前述したように、小川(豊川か)がほぼ90度に右方に曲がりくねっているので、この小川に境されていた我が家および貸家の宅地は大幅に縮小した。
そして、小川に突き出ていた家も正常なものになってしまっている。
即ち、母家正面の貸家が、1.5メートル位、小川に突き出ていて、小川の石垣から太い支え棒で支えられていた、という現実の証拠は消失してしまっている。
古文書「川身変更の由来」の内容
古文書「川身変更の由来」の内容は、我が母家の右方向および後方の境界部に存在する "豊川"(村での治水)に関することのようである。
その内容は、
我が母家から離れた場所に流れている豊川を、我が宅地内を通る様に造成して変更する。
そして、その費用の一部、約3分の1強は、二ツ木家で負担する。
このことは、当時の宮之城の庄屋さん達が、二ッ木家の同意を得ずに内緒で勝手に決めたことで、
全く逆らうことが出来ない状態におかれた。
自分の宅地内に公共の(村の)豊川を通すようにすることは、宅地面積が縮小するのみならず、
しかも、自分達がその費用を負担するとは!
更に、公に出す「承諾書」は、父(二ッ木家)を無視して村の有力者達が勝手に作り上げたものであり、
その「承諾書」をあたかも自分から率先して記したような策略 だった!
残念至極!
家を小川(豊川)に、1.5メートル位突き出ている状態のままにしたのは、せめてもの庄屋さん達・お上に対する抵抗であった、と思われる。
1996年(平成8年)、宮之城町で、この小川(豊川)に蓋をして道路にする工事を行うことになったとのことで、1996年8月26日に、妻と共に宮之城町役場に出向いた。
この時、役場で古文書「川身変更の由来」を見せて、「この川は二ツ木家のものだから、帰して貰いたい」 と、3時間粘ったが、役場の担当の人達は初めて見聞き知ることなので、ムニャムニャ、、、
結局、今になっては、小川(豊川)を二ツ木家に返却は出来ない。
その代わりに、我が家の方の川底の境界線を、二ツ木家の境界線にするので、勘弁してくれとのこと!
その後、古文書「川身変更の由来」の訳文、古い時代の地図類、そして、川に蓋をする工事の時の写真等、を送ってきた。
古文書に出てくる父(伊右衛門)は、校長先生をしていた、と聞いているが、この古文書からは想像出来ない。
そして、この古文書を書いたのは、僕の祖父(覚二)が18才の時に記述したものであるようだ。
古文書「川身変更の由来」の原文
ーーーーーーーーーーークリックして拡大表示(以後 同様)
原文 1頁〜表紙ーーーーーーーーー


原文 3頁〜2頁

原文 5頁〜4頁

原文 7頁〜6頁

原文 9頁〜8頁

古文書「川身変更の由来」の訳文
1)義父の訳文
義父訳ー1頁 義父訳ー2頁 義父訳ー3頁

義父訳ー4頁 義父訳ー5頁 義父訳ー6頁

2)宮之城町役場・対訳
対訳 -1頁 対訳 -2頁 対訳 -3頁



3)宮之城町役場・訳
町役場訳 -1頁 町役場訳 -2頁 町役場訳 -3頁



4)宮之城町役場・意訳
ーーーーーーーーーーークリックして拡大表示(以後 同様)
町役場・意訳文-1頁ーーーー


町役場・意訳文-2頁
町役場・意訳文-3頁

灰色の巨塔3、昭和50年前後の大学の医局

























長崎大学第二内科医局からの
埼玉県立がんセンターへの派遣は
3名の医師から僕1人に減らされた
























大規模病院の「幹部医師、部長」、「医長」、そして、「医員」の身分
このことは、築地の旧国立がんセンターの例を見れば、歴然とする。
「総長」が定年になって「次の総長」が選ばれる場合は、「東京大学」と「慶応大学」とが交互に総長の地位を交代する。
そして、東大系の総長から『慶大系の総長』に交代したら、病院の「幹部クラス」「部長クラス」は東大系から、『慶大系の医師』に総入れ替えになる。
そして、総長の大学系列と全く関係がない診療科は無関係のこともあるようだが、一般には「医員」クラスも入れ替えになる。
・・・との噂があった。
数年前に、東大系の総長から慶大系の総長に変わると、実際に「慶大系の医者に、ほぼ総入れ替え」になってしまったようだ。
この場合、東大ではなく他の大学卒業の医師でも、東大から可愛がってもらっていた、と云うだけで辞めさせられた、辞めざるをえなくなった、のか、入れ替えになった、事実がある。
上記の旧国立がんセンターの場合とほぼ同様に、
埼玉県立がんセンターを含め日本全国の大規模な病院は、
医学部付属病院の「医局」と密接な関係を保っていた。
その原因の最たるものは、医師確保の観点からであろう。
埼玉県立がんセンターの場合、
管理者クラスの総長、病院長、部長クラスは東大出身者で固められていたが、(総長が東大)
各診療科の "医長" クラスの医師は、例え医局からの派遣の形であっても、その殆どが「最終の勤務地」としての「勤務医」であった。
一方、若手の "医員" の大多数は、大学から派遣された「大学の医局員」の身分であった。
長崎大学第二内科からの、
がんセンター消化器科への派遣医3名のうち、
僕は「勤務医」としての派遣だったが、
僕以外の、石橋勇先生(昭和44年卒)と、嶋田定嘉先生(昭和50年卒)の2人は「医員」であり、長崎大学第二内科所属の「医局からの派遣医」(非常勤)だった。
昭和56年早々のある日の早朝に、いきなり、長崎大学二内の原教授から電話があった。
白壁教授が「長崎大学第二内科の原教授は、非常につまらない埼玉県立がんセンターに、二ツ木をいつまで派遣しておくつもりか」と云った、とのこと(噂)を聞いたが、一体全体どうなっているのか。
「白壁教授に敬意を表して君らを埼玉に送ったはずだ」、と。
白壁教授は、本心は、僕が関東に出てくるのなら、白壁一派として動いて貰いたい、との意向があった。
村上教授から頼まれて、村上教授のメンツをたてて、僕の埼玉県立がんセンターへの勤務を後押しした、と思われる。
(参照)「君マージャンするかね」と、村上教授
(参照)長崎大学を辞めて、埼玉に行くことに上記のことの為に、僕は長崎大学を訪れて、原教授と話した。
『僕以外は、2人とも長崎大学に引揚げるつもりだ。
ひいては、現在、学位指導を行なっていて、そのメドが立ちそうな方を後回しにして、学位のメドが立っていない方の一名を、なるべく早々に医局に返すように』とのことだった。
昭和50年前後の長崎大学の医局の権威 == 第二内科 ==
僕と原田嘉文先生との2人が第二内科の消化器科のサブチーフとして入局した時には、原先生が教授になられて数年後であった。
その数年前から、早川先生は第二内科に入局して、消化器科のチーフとして1人で頑張っていた。
石橋勇先生は早川先生を慕って第二内科に入局し、消化器グループに属し、そして、胃液の研究を行なっていた、と思われる。 なお、石橋勇先生は、学年で1番で卒業したとの噂だった。
その早川先生が諸事情で第二内科を辞めた。
この事が大きな理由と思われるが、石橋勇先生は第二内科を辞めて、他の医局に入局する ことにしていた・・・こっそりと。
しかし、その医局の教授は第二内科出身であり、直ぐにバレた。
僕は原教授に誘われて、2人でその医局の教授に "膝詰め談判" して、石橋先生を第二内科に取り戻した経緯があった。
そして、原教授から「石橋勇先生の面倒(学位)は僕が見るように」とのことになってしまった。
そのような事情があったのに拘らず、埼玉県立がんセンターに松永圭一郎先生の変わりに行く事になった時には、非常にゴタゴタしたはずである、と思われる。
もし、噂通りに石橋先生が1番で卒業したのであれば、"頭を使うことが得意" であり、"テクニックが中心になる" X線・内視鏡検査が主体である「がんセンターには不向き」である。
その為であろう、石橋勇先生は、2年遅れの昭和54年3月からのがんセンターへの勤務だった。
石橋先生は「長崎には帰るつもりはない!
帰るくらいだったら埼玉で開業する」と
僕は、学位の研究として「組織培養」の準備をしていたが、石橋先生は「組織培養」に関する研究は全く行なおうとしなかった。行なうつもりが無かったようだ。
僕と原教授との話し合いで、まず最初に昭和56年4月迄には、学位のメドがたっていない石橋先生を、長崎大学に返さざるを得ない状態に陥った。
しかしながら、長崎に帰るということは、学位を原教授から貰う事であり、そうなると、お礼奉公としての地方の関連病院に行かされることになる。
そこで、石橋先生は「長崎に帰って原教授の下で働いて、学位をとって、そして、お礼奉公としてあちこちの地方の病院に回されるのはイヤだ。」
「学位は要らない」
「長崎には帰らない」「埼玉で開業する」、とのことで、
埼玉では最も大きい私立の総合病院に勤務した。
埼玉県立がんセンターの時よりも生き生きとしていた。
そして、その約20年後頃には開業して、現在、元気で働いている。
僕は、念願かなって ? 長崎大学からの派遣
1人ぽっちのがんセンター勤務になった
石橋先生が辞めた後、頑張り屋の慈恵医大出身の中川高志先生に来てもらい、石橋先生の穴を埋めた。
(僕は消化器科の人事権を持っていた)
石橋勇先生が辞めた2年後、昭和58年3月には、嶋田定嘉先生が埼玉県立がんセンターを辞めて、学位をとる為に長崎大学第二内科に帰った。
嶋田定嘉先生は昭和52年6月から約6年間の埼玉県立がんセンター勤務であった。
嶋田定嘉先生がいたから(僕がこき使うだけこき使うことが出来たので)
埼玉がんセンターでの仕事がスムーズに出来た訳で、
僕にとっては、
"嶋田先生は僕の、両手両足的な存在であった" 。
しかし、嶋田定嘉先生にとっては、
"僕はうんざりする程煩くて、毎日夜遅く迄研究研究で、長崎に帰って、ホット! ホッと! している"、
そして、二度と消化器がん治療の仕事はしたくない
・・・と思っているのではないか、と想像する。
嶋田定嘉先生は、学位になり得る仕事は2つ行なった。
それらのデータを持って帰った。
そのうちの1つが学位になっている。
僕は、というと、
やっと念願かなっての(?)
長崎大学からの1人ぽっちの派遣医になった!
のであった!?!
医局、医局に振り回されて
手持金10万円で49坪の一軒家を建てた























昭和59年にマイホームを建てた。
僕は部長官舎に住んでいたが、
万が一のことがあれば、家族は
1ヶ月以内に追い出されるので






















自己資金ゼロでも、借金のみで家を建てられないか、と考えた。
妻がなくなった。
僕らは、県立がんセンターの部長官舎にすんでいた。
しかるべき筋の話しによると、
"公務員である僕に万が一の事があると、僕の家族は有無をいわさず1ヶ月以内に官舎から追い出される"、とのことだった。
そこで、考えた。「この辺で埼玉に家を建てようか」と。
しかし、お金が無かった! 預金は0だった。
今迄の長男のラ・サール6年間の学費・寮費、年間6回の旅費、
僕の10の国内学会の関係費用、出張旅費(年に約30回以上出張)、
そして、国際学会15回の出張旅費(県からの旅費は、うち1回のみ)、
等で、預金はゼロだった。
家を建てるだけの金銭を、借金で工面出来ないかと考えた。
借金出来るのは、1)退職金担保で共済組合からの借金、2)住宅金融公庫からの借金、そして、3)銀行からの住宅ローン、の3カ所である。
新築1戸住宅の展示会場など見て歩いた
昭和58年11月頃から、大宮市での住宅展示会場、がんセンターから20km 以内の土地、建て売り住宅等を見て回った。
僕の同級生が朝日新聞に勤務しており、彼の話しでは「旭化成のヘーベルハウスが最も安心出来る建物だ」、と。
しかし、ヘーベルハウスは高嶺の花で、、、
(参照)《公式》ヘーベルハウス - asahi-kasei.co.jp
(参照)CUBIC | ヘーベルハウス | ハウスメーカー・住宅メーカー展示会場に、ヘーベルハウスの展示は無く、ヘーベルハウスをそっくり真似した大和ハウスの「大和リベルテ」が展示してあった。
鉄骨の角は、旭化成はナットでの締付けだけだが、溶接してあり、そして、家全周にガラスウールを巡らせてある点が旭化成のヘーベルハウス(南向きにはガラスウールなし)との違いであった。 この時は、試作品としての出展だったのか。
大和ハウス工業のホームページ「歴史」の1989年(s64)に、H型鋼を柱・梁に用いた、鉄骨構造の無溶接構法(DNS)を開発、と記載されている。
(参照)1980年代 - 大和ハウス工業しかし、非常に高かった。
お金持ちが建てる家なのだなと思った。
その当時、最低でも、2,500万円はした。
土地も含めてプレハブ一軒家を建てるとなると、土地の場所にもよるが、
土地代が坪4、50万円、プレハブの安価な家30坪で1,000万円としても、最低でも2千500万円はかかることが判った。
土地を安く借用する事が出来た。そこで、借金出来るお金は全部、建物代にあてた
昭和59年4月に、伊奈町の片田舎ではあるが、がんセンターから4、5km の位置に、80坪の土地を安価で借地出来る話しがまとまった。
そこで、旭化成ヘーベルハウスで2,500万円かけて49坪の家を建てることにした。
設計が東京の渋谷営業所だったので、ハウスの外観はその頃の流行だった「キュービック」になった。
周囲が田畑のど田舎には、奇異な感じの "建物" となった。
建築途中に、小学生が通りかかった。
「ナーンだ。病院かー」・・・、と。
用意した資金、2,500万円は、
1)自己資金:10万円
2)退職金担保での共済組合から:770万円
(年利 6.5%、元金均等払い)
3)住宅金融公庫から:720万円
(大型金利年利 7.2%、元利均等払い)
4)銀行から住宅ローン:1,000万円
(年利 7.8%、元利均等払い)
(参照)住宅金融公庫 - Wikipedia
(参照)大型金利とは?大型金利の意味を調べる|不動産用語集
(参照)[PDF]昭和50年~平成10年の旧公庫融資基準金利の推移
(参照)住宅ローン - Wikipedia
(参照)元利均等返済 - Wikipedia
(参照)元金均等返済 - Wikipedia
(参照)元利均等と元金均等-徹底比較

建物予定地 s59.07.08ーーーー基礎 2週間目

正面左方向 s60.02.13ーーーー正面右方向 s60.02.13

南方向から s60.02.13ーーーー南方向の庭 s60.02.13